第9話

文字数 1,184文字

この小学校には「秋の読書月間」という行事がある。
生徒たちは配布された指定シートに日付と本のタイトルと作者名、読んだページ数を記録して、読み終えたページ数の合計を競う。

花純にとって、最高の一ヶ月行事だった。

読むと、知らなかったことを知ることができる。知ることができたら、どういうものなんだろうって想像できる。想像ができたら、もうそれは読んだ人だけのものなんだよ。

丈瑠に言われてから、花純は図書館へ行くたびに借りられるだけ借りてひたすら読んだ。

本の中にはヒントがたくさんあるはず。わたしがどんな子だったら、お兄ちゃんもお父さんもお母さんもおばあちゃんも友達もわたしに対して好意を持ってくれるんだろう。どうすれば喜んでくれるんだろう。

同じ本を何度も繰り返して読むことで、いろいろな登場人物の視点で行動理由、感情を反芻し消化する。
花純はその作業が楽しくて仕方がなかった。
読書月間記録シートには、小学生がなかなか手に取らないような作品名が並んだ。同じ書名が何度も並んだ。記録シートの行が進んでいくたびに、自分の中に新しい自分が増えていった。知らない世界、知らない感情、わたしは知らないことがこんなにたくさんある。知らないことは楽しい。
総ページ数は1万を優に超えていた。


提出された記録シートの中に「源氏物語 現代語訳付き」「百人一首 解剖図鑑」「暗夜行路」という文字を見て、牧野は気が遠くなった。
児童文学やティーンズ文庫の書名が並ぶ中で、明らかに異質だった。
間違いなくあの子だ。それ以外にあり得ない。
名前を見るまでもなく確信していたが、念のため記名欄に目をやる。吉井花純。間違いなかった。

もはや牧野にとって、花純はこどもではなかった。見た目に騙されてはいけない。あれは、化け物だ。
このままでは私自身があの化け物に喰われてしまう。

出席番号順に一人一人声をかけながら記録シートを返却しながら、牧野は務めて冷静に花純に声をかけた。
「吉井さん。なかなか難しい本を読んでいるみたいだけど、なぜその本を選んだの?」
「暗夜行路ですか?志賀直哉の顔が好きだからです。」
想定外の返答に牧野は面食らった。
「顔が好き?」
「そう、文豪の中ではダントツで好きなタイプの顔なんです!顔がきっかけで読みました。」
「へえ、ああいうタイプの顔が好きなのね。先生は顔だったら芥川龍之介が好きかな。」
小学生には難解と思われる長編小説を「作者の顔が好きだから」読む少女に対し、牧野はそう答えて反応を伺うことにした。
「先生は芥川派ですか!ニヒル系が好きなんですね!」
花純は顔を輝かせて牧野に言った。嬉しげな花純の様子を見て、牧野は試すようなことを言った自分自身を恥ずかしく思った。

「さあ、月末までもう少しあるから、みんなたくさん読みましょうね。」
クラスに牧野の声が響いた。
花純は大切そうに記録シートをランドセルにしまった。
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登場人物紹介

吉井花純(よしいかすみ)


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