第22話 母は来ました 今日も来た

文字数 1,681文字

『ママ、あなたは……』というタイトルで、母が出てくる歌を投稿したことがあった。

『吾亦紅(われもこう)』『秋桜』『人間の証明のテーマ曲』『ママに捧げる歌』『時には母のない子のように』

 懐かしい歌ばかりだ。

 なかでも、この歌。

 亡き父が酒を飲むと歌っていた。感情込めて。


「ああ 風よ 心あらば伝えてよ

 愛し子待ちて今日もまた

 怒涛砕くる岩壁に立つ母の姿を」



『岩壁の母』

作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜(なみりゅう)歌:菊池章子。

 1954(昭和29)年、テイチクレコードから発売され、100万枚を超える大ヒットとなる。


 1972(昭和47)年にはキングレコードから再発売。

 歌詞の合間に室町京之助作の台詞を加えたものを二葉百合子が歌い、300万枚を超える更なる大ヒットとなった。


  

『岸壁の母』とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。 

 その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。 

端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)。

 明治32年9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫、端野清松と一人娘とともに居住していたが、昭和5年頃に夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年に上京する。

 新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。


 終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。

 昭和29年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。


 しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12年8月のことであった。


 ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。

 新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。

 理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。 

 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年以降、3度会ったが、新二は

「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」

と帰国を拒んだという。

 旧満州の関東軍陸軍石頭予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は、

「あのひどい戦いで生きているはずがない」

と証言し、同会の公式見解では、

「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」

と述べられている。


 端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。

 息子の生存を信じながらも昭和56年7月1日午前3時55分に享年81で死去。

「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」

と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉百合子が証言している。


 平成12年8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。


https://www.umeshunkyo.or.jp/204/255/index.htm

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%AF%8D  

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