第4話 放送禁止歌

文字数 2,347文字

 中学2年のときに同じクラスになった斉藤君。背が高かった。私の前の席。彼の隣は背の低い高砂さん。ふたりはいいコンビだった。1年のとき同じクラスだったのだろう。女の高砂さんが、斉藤と呼び捨てにしていた。

 高砂さんとはよく本の話をした。『真田幸村』を貸してくれたが、読めずに返した。ポワロが好きで、ふざけて私を「モナミ」と呼んだ。

 斉藤君は毎日遅刻してきた。怒られても怒られても遅刻してきた。

 斉藤君は後ろを向いて話しかけてきた。

「アイミー好き?」

「なに、それ?」

とは聞けなかった。喫茶店など入ったことはない。

「岡林信康好き?」

 真面目な私はその頃、岡崎友紀も知らなかった。

 私は真面目すぎるくらい真面目で面白くはなかったろうに。反応がないから気になったのかもしれない。授業中もしつこく話しかけて、先生に怒られていた。

 1度だけ素敵だった。文化祭でギターを手に歌った。岡林信康の『くそくらえ節』

 歌詞にびっくり。でも、先輩たちより魅力的。

 歌手の高石友也さんが地元の教会に来ると聞き「高石友也って誰や?」という認識だったけど、山谷にいたという共通点から興味を持ち「反戦フォークの夕べ」の実行委員になった。

 当日その高石友也の歌を聴き、うまいとは思わなかったが、まいったと思った。自分の思ったことを歌にして歌っていいんだと。

 それで自身も歌を作りたくなり、友達のギターを借りて、高石のアルバムを聴きながらコード進行などを勉強して、ちょっとずつ歌を作った。

 その中の1曲が『くそくらえ節』

 再び高石が来るということで、飛び入りで歌わしてくれと頼む中で、できた歌を聴かせたところ、どれもこれもつまらんと言われて、やけくそで歌ったのが『くそくらえ節』

 これがおもしろいと言われて歌うことになった。

 そしたら、高石よりも受けてしまい、その場にいた音楽事務所の秦政明より「うちに入って歌わないか」と誘われ歌手になる。

 デビュー前にいろんなステージに出て受けたことから、デビューさせる計画が持ち上がった。 

 1968年に当初一番条件のよいビクターレコードと契約して、4月始め『くそくらえ節』をA面に、『山谷ブルース』をB面で吹き込み「山谷出身の歌手」ということで、5月15日から大々的に売り出す予定だった。 

 ところが、レコード発売直前になって、倫理規定委員会から

「思想的偏向性 (国家権力や政治家を徹底的に風刺した歌詞となっている)」があるということ、『くそくらえ節』と言うタイトルではまずいと言うことで『ほんじゃまあおじゃまします』とタイトルに改名されたものの、歌詞に問題あり (歌詞の中の政治家を批判する内容が、近く行われる参議院選挙に影響が出る)と言うことで、その歌詞も見直し、見本盤までは作られたが、発売中止になった。

 結局、B面に収録されていた「山谷ブルース」をA面にして (B面は「友よ」)、デビュー曲として発売。

 秦は、当時の新聞記事で、

「政治家個人を中傷したわけではないし、落語家でもこのくらいのことを言っている。行き過ぎで、このままでは何も言えなくなる。どうしてもダメなら自主販売も考えている」

ということで、翌年立ち上げたURCレコードから、ライブ録音された物がシングル盤として発売。B面は「がいこつの唄」。

 7インチレコードながら、A面が収録時間8分弱ということで、33・1/3回転、B面は通常の45回転である。 

 1969年8月21日、「題名自体が下品なもの」である上に、

「歌詞の内容についても一方的な発言が多く、国家の誇りを傷つけ、個人、職業などをそそしるものとして」

日本民間放送連盟による要注意歌謡曲指定 (放送禁止)を受けた。

 同時期には、岡林の他の曲も要注意歌謡曲指定 (放送禁止)を受けている。

 卒業したあと、斎藤くんから何度か電話がきた。家の固定電話だ。顔を見ないと私も話せた。同級生の女の子に何人かかけているらしい。

 出した名前はかわいい子。かわいいけれど性格は我儘で、私は好きではなかったふたり……死んじまえ。

 電話は定期的ではない。気まぐれにかかってきた。寂しいときの話し相手の何人かのひとり。私も長電話を楽しんだ。クラシック音楽が好きだというと、電話の向こうで鼻歌が。ツァラトゥストラはかく語りき……

 高校を卒業して就職した。

 その頃また斉藤君から電話がきた。レストランでバイトをしているから食べに来い、と。何人かにかけたのだろう。会社のふたつ手前の駅。

 よくひとりで行ったと思う。ノンノのモデルを真似た格好で。

「また、斉藤の女」

とヒソヒソ声が聞こえた。死んじまえ。

 社会人になったふたりが久しぶりに会った。斉藤君は仕事中だから、たいして話せない。店の名は忘れてしまった。コーヒーを運んできたときに、『かわいがってね』という意味だと教えてくれた。

 その夜電話がきた。本当に来るとは思わなかった、と。

 その後も忘れた頃に何度か電話はきたが会うことはなかった。斉藤君は亡くなったのだ。心臓病で突然。高砂さんから電話がきた。

「親しかったでしょう?」

と。

 葬儀には行かなかった。冷たいのかな?

 今になって岡林信康を聴いている。斉藤君が聴いていたフォークのカリスマ、フォークの神様。

 彼は本人の意識や意図とは別に、祭り上げられ疲れて山村に移住したのよ。今も音楽活動と農作業をしている。声も渋くなった。ボブ・ディランのように。歌詞もいい。

 斉藤君の聴けなかった曲を私が聴いている。何十年も経ってから、死んじまったあなたを思い出している。

フォークソングをランダムに流していたら引っかかりました。『くそくらえ』の方の歌とは……

岡林信康は『色褪せない音楽』42話43話で特集しています。

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