第12話 酒バラ
文字数 2,340文字
破滅
朝、目が覚めるとウイスキーをストレートで1杯。
また入院か。
しばらく飲めないな。
主人公のふたりは、生活のストレスから、ともに重度のアルコール依存症になっていく。
酔って家に火を点けてしまっても、自分の依存症を認めようとしないほどの重症に。
断酒してもまた戻ってしまったり。
映画には、題名にあるワインなんか出てきません。ウイスキーやジンを何本もグイグイとラッパ呑み……
映画を観たら歌えない「酒バラ」より
ジョニー・マーサー作詞、ヘンリー・マンシーニ作曲
歌 尾崎紀世彦
聖書は、アルコールの入った飲み物を飲むことを禁じてはいない。アルコールそのものは罪で汚れているわけではない。
しかし、アルコールを飲む事に関して多くの警告がある。クリスチャンが絶対に避けるべきことは酒に酔うことと、それに依存するようになることなのだ。
アルコールを少量飲むのは害にもならないし、依存症にもならない。実際、健康、特に心臓のために少しの赤ワインを飲むことを勧める医者もいる。少量のアルコールを飲むことはクリスチャンの自由の問題だ。
酒に酔うことと依存することは罪なのだ。
しかしながら、アルコールとその影響についての聖書の警告、大量に飲むことになる誘惑、他の人をつまずかせる可能性、などを考えると、クリスチャンは、完全にアルコールを避けるのが一番だと言えるだろう……
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-abortion.htmlを参考にしました。
【キャリー・A・ネイション(1846年11月25日-1911年6月9日)】
前禁酒法時代アメリカの禁酒活動家の一人。
特に破壊行為を以って自らの見解を広めたことで記憶されている。
キャリーは幾度となく、アルコール飲料を販売している施設に侵入してはその内部をまさかりで叩き壊した。
彼女は大柄な女性で、身長は180cm近く、体重は80kg近くあった。
キャリーは自らを
「キリストの足元を走り、彼が好まないものに対して吠え掛かるブルドッグ」
だと述べ、バーの破壊による禁酒主義の推進を神聖なる儀式だと主張した。
1865年、キャリーはチャールズ・グロイド博士という人物と出会い結婚した。グロイドは疑いようもなく重度のアルコール中毒者であった。二人は、娘のが生まれる直前に離婚し、グロイドはそれから一年も経たない1869年のうちに死亡した。
キャリーは、自分が酒との戦いに情熱を傾けるのは、この失敗に終わった第一の結婚を原因だとしている。
その後デイヴィッド・A・ネイション博士と知り合った。デイヴィッドは弁護士、牧師、新聞の編集者で、キャリーより19歳年上であった。
キャリーの禁酒活動のやり方は、初めは単なる抗議だったがエスカレートしてゆき、バーテンダーに
「お早うさん、魂の壊し屋さん」
のような当てつけがましい挨拶をしたり、酒場の常連客に向かって手回しオルガンで賛美歌を奏でるようになった。
キャリーは幾つか石塊を集めて酒場へ赴いた。
「飲んだくれの末路から皆さんを救うために参りました」
と宣言し、石塊を取り出すと酒場の在庫の破壊を開始した。
キャリーが同様の方法でカイオワ郡の酒場を更に二つ破壊した後、竜巻が襲った。
キャリーはこれを、自分の行動に対する神の是認の印だと見なした。
キャリーはカンザス州で破壊活動を続け、逮捕記録の伸びと共に名声も高まっていった。キャリーはバーに向かって行進してゆき、まさかりで備品や在庫を粉砕しながら歌と祈りを捧げた。
1900年から1910年の間で、キャリーは破壊行為により30回ほど逮捕されている。キャリーは巡業講演で得た報酬や土産用まさかりの売り上げ金で罰金を支払った。
キャリーの反アルコール活動は"All Nations Welcome But Carrie"のスローガンと共に有名になった 。
キャリーは"The Smasher's Mail"(粉砕者通信)という隔週の機関紙と"The Hatchet"(まさかり)という名の新聞を刊行した。
1911年6月9日に死亡し、ミズーリ州ベルトンにある墓地に埋葬された。キリスト教禁酒婦人連盟は後に"Faithful to the Cause of Prohibition, She Hath Done What She Could."「禁酒法を制定させた篤信者。彼女は自らの為し得ることを為した。」という文面の石碑を建てた。
録音:1964年10月19日、20日
オスカー・ピーターソンの人気盤。「酒バラ」では有名な1枚。
映画公開後の約2年後の録音だが、「酒バラ」はこのときは完全にジャズ・スタンダードになっていた。
「酒バラ」は、映画公開直後から多くのジャズマンが取り上げ、ヴォーカル、インストともにたくさんの録音が残されている。
この広がりの勢いは、ほかに例がない。ポップスのアンディ・ウィリアムスが1963年3月にこの歌のシングルをリリースして大ヒットとなった。
(ログインが必要です)