スコットランド王ロバート1世(12)
文字数 986文字
1309年の翌年から3年間かけて、すなわち1310年にはリンリスゴウ、1311年にはダンバートン、1312年にはパースと、ロバート1世は自身の手でイングランドが掌握した城ないし前哨戦を一つ一つ落としていくことで、その支配権を削減していった。
同時にイングランド北部を襲撃してマン島のラムゼイに上陸し、キャスルタウンのルーシェン城を包囲して1313年6月13日に陥落させることで、イングランドにとってマン島が戦略的価値のないことを知らしめた。1314年春にエドワード・ブルースはスターリング城を包囲し、同城を守るフィリップ・モウブレイは6月24日までに救援の見込みがないのなら降伏することに同意した。
8年の歳月が消耗されたが、戦場で真正面からイングランド軍と戦うのを意図的に避けてきたことは、多くの人々がロバート1世を優れたゲリラ戦の指導者とみなすように至らせることとなった。このことは封建騎士としての個人の台頭の変質として現れている。
1314年のバノックバーンの戦いで、ロバート1世はイングランドからのスコットランドの独立を、外交上ではなく軍事上で確かなものとした。エドワード2世はスターリング城の包囲を解こうとしたものの、ロバート1世の綿密に計画された型破りの戦術の前に決定的な敗北を喫した。
イングランドの脅威から解放されたことで、スコットランド軍はイングランド北部へ侵攻することが可能になった。ロバート1世は次にイングランド北部への国境線拡張に取り組んで、ヨークシャーとランカシャーへの侵攻を開始した。