ボードゥアン3世(8)

文字数 1,055文字

ボードゥアン3世についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
1161年にメリザンド王妃が亡くなり、1163年2月10日にベイルートにてボードゥアン3世は崩御した。当時の噂によれば、ボードゥアンはシリア正教会の医師により毒殺されたという。当時の歴史家ギヨーム・ド・ティールによれば、『王は医師から渡された錠剤を飲むや否や、高熱を発し赤痢に罹り、そのまま結核を発症なさった。その後王のご病状が回復することはなかった』という。
もし王が医者によって毒殺されたとしたら、随分ひどい話ですね。
ボードゥアンはエルサレムへの帰還途中、トリポリに立ち寄り数か月ほど滞在した。その後再びエルサレムに向かい出立したものの、病状が悪化し、遂にベイルートで息を引き取った。ボードゥアンの遺体は8日かけてエルサレムに運ばれた。多くの者が王の死を嘆き悲しんだという。当時18歳のテオドラ王妃は王の死を受けてアッコに帰還したが、ボードゥアンとテオドラは子供を授かることはなかった。エルサレム王位は弟のアモーリーに継承された。

テラ・サンクタ博物館に現在展示されている大理石の装飾壁は、元々は聖墳墓教会に安置されていたボードゥアンか若しくは父フルク5世の墓碑であったとされている。

ボードゥアン3世は亡くなった時33歳位でした。
ボードゥアンは教養のある、話し上手でずば抜けて知性にすぐれた国王であったとされる。また父王とは異なり、記憶力にも優れていた。彼は余暇を歴史書の読書で過ごし、王国の慣習法も熟知していた。教会財産を尊重し教会に対して課税することはなかったとされる。そしてボードゥアンは全ての階層の人々と友好的に接し、王との会話を希望する者とも、何気なく出会った者とも惜しげなく会話をしたという。また謁見を求める者が居れば、断ることなく謁見を認めたという。彼は若い頃、博打などの遊戯にハマり、また人妻と関係を持つなどしていたとされるが、テオドラと結婚してからはこれらの悪癖は改善され、王妃に忠実に接するようになった。ボードゥアン3世は彼の臣下の誰からも人気があったとされ、皆が彼を尊敬していた。ましてや彼の宿敵ヌールッディーンすらも彼を尊敬していたとされる。ヌールッディーンはボードゥアンの死の報を受けた際『フランクは素晴らしい王を失った。今のフランクには彼ほどの王はもう存在しない』と述べたという。
ボードゥアン3世は優れた王だったようです。次回からはボードゥアン3世の弟でエルサレム王位を継いだアモーリー1世について調べてみます。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色