ニコラウス・コペルニクス(17)
文字数 1,250文字
コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、コペルニクスの「実体論的方法」は、宇宙の真の構造を求める研究の始まりとなり、プトレマイオスの理論の矛盾を明らかにし、最終的にはコペルニクスの説は古代から中世の世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。
18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁は特に反対意見を表明しなかった。コペルニクスも存命中にこの考えを公表したが、この考えがキリスト教に反するものだとは捉えていなかった。積極的に考えを広めてはいなかったものの、すでに1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていること、そしてコペルニクス自身がローマ教皇パウルス3世へと『天球の回転について』を献呈していることからも、ローマ教皇庁が当初反対の立場ではなかったことは明らかである。
またプロテスタント、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派も、明確にこの考えに関して反対してはいなかった。しかしマルティン・ルター本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も初期のものである。
しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持する者は多かった。『天球の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわった者の多くをルター派が占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において『天球の回転について』は、おおむね受け入れられていたと言える。