ボードゥアン4世(3)
文字数 922文字
イスラム教徒は病身の少年が率いる300の騎兵に蹴散らされ、ボードゥアンはエルサレムに凱旋した(モンジザールの戦い)しかし、1179年6月10日のマルジュ・アユーンの戦いでは敗れ、ヤコブの浅瀬での戦いではシャエウテレ城の建設を頓挫させられた。同年10月にヨルダン川上流に要塞を築き、サラディン軍と死闘を繰り返し、1180年にはイスラム勢と講和の協定を結ぶ。
ところが翌年、エルサレム王国の封臣である外ヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨンが非常識にも休戦破棄を告げずアラビアのヒジャーズ地方へ侵入し、大きな隊商を襲ったため、サラディンはエジプト全軍でルノーの領地・外ヨルダンに押し寄せた。ボードゥアンはルノーの行いに激しく憤ったが、1182年6月に救援を呼びかけられてモアブからガリラヤまで転戦し、サラディンの大軍を追い返した。8月にはベイルート防衛にも成功している。
ボードゥアンはイスラム圏でもヌールッディーンの家系に属するアレッポ総督とモスル総督の独立を助けサラディンに対抗する。この2つの都をサラディンが攻めるとボードゥアンはダマスとホーラン地方に強力な牽制攻撃をかけて、ダマス近郊のダレイヤまで進出した。1183年11月にルノーがまたしても船でヒジャーズ地方を荒らし、サラディンの反撃を誘う。ボードゥアンは全身不随、盲目という有様で軍の後から担架でルノーの要塞であるケラク城に着き、サラディンの軍と戦った(ケラク包囲戦)サラディンが退却した後、守備隊を増強し城壁を立て直すまで、エルサレムに帰らなかった。