ボードゥアン4世(2)
文字数 910文字
ボードゥアンは13歳で王位に就いた。彼の最初の摂政はミロン・ド・プランシーで、次がトリポリ伯レーモン3世である。国外ではサラディンがスーダンからユーフラテス川にかけて統一する機運であった。1175年レーモン伯はホムス方面に先制攻撃し、サラディンにアレッポを手放させた。その間に14歳であったボードゥアン王はダマスから約5キロの地であるダレイヤまで軍を進めた。翌年7月にまたもアレッポを包囲しようとするダマス軍に陽動作戦を加え、アンジャルの付近で破る。
13歳で王になり、14歳の時には軍隊を率いていたというのがすごいです。僕は14歳の時はニコラス先生に勉強を教えてもらうようになって少しは人生に希望が持てるようになりましたが、それでもまだ僕を虐めた継母と厄介払いをするかのように7歳の僕を修道院に入れた父を恨んでいました。
1177年、エルサレム王国の精鋭がシリア北方で戦っている間に、サラディンは守りの薄くなった王国西南部のアスカロン要塞に、エジプトから騎兵で急襲した。王は400名の手勢を率いて、「真の十字架」を奉じて立ち向かい、サラディンより先に要塞に着くが2万6千のエジプト兵に包囲される。
エルサレムまで攻め込むつもりのサラディン軍を追い、敵の襲撃隊に焼き払われた農地を見ながら、やがて川床へ入る敵軍を見つけると「弱者のうちに力を現す神が、病気持ちの王を鼓舞したもうた。王は馬から降り、大地に跪き、十字架の前にひれ伏して、涙ながらに祈りをあげた。そのさまを見て、すべての将兵は感きわまり、この期におよんでは、一歩も引かぬこと、馬首をめぐらすものは、誰でも裏切り者と見なすことを誓った。将兵は馬にまたがり、突撃に出た」(ミシュル・ル・シリアンの年代記より)