ブルターニュ継承戦争(2)
文字数 1,365文字
ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母マルグリット・ド・ヴァロワはフランス王フィリップ6世の妹であり、フィリップ6世は甥夫婦の相続を支持した(コンフランの決定)。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、すでに百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王エドワード3世をフランス王と認めて、その支援を求めた。
興味深いことに、エドワード3世は女系継承によるフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王になったが、ブルターニュではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし継承制度は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。
ジャン・ド・モンフォールの主張は、ブルターニュ公はすでにフランス王国の「同輩」になっており、最年長の男子が最年長の女子よりも相続権が上に位置するイル=ド=フランスの慣習を適用すべきだと主張しており、一方でブルターニュの慣習では女子による相続が排除されない(しかも過去に3度女婿による相続が行われている)ので、パンティエーブル女伯の継承順位が上だと一般に認められていた(だからこそエドワード3世は、彼女がシャルルと結婚する前には自分の弟との結婚を成立させようとしていた)
ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都のナント、リモージュ等の主要都市を押さえ、8月までにレンヌ、ヴァンヌを含むブルターニュ公領の大部分を支配下に収めた。
1341年当時、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソーの戦いで勝利し、ナントを陥落させてジャン・ド・モンフォールを捕虜にした。
しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑と言われ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ジャンヌはブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して、西ブルターニュのエンヌボンに籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士とともに包囲を突破してブレストに行き、援軍を引き連れて再びエンヌボンの包囲を突破し、城に戻ったという武勇伝が伝えられている。
1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウィリアム、サー・ウォルター・マーニーの援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。