第2話 メイはサトシに懺悔しなさいと迫った

文字数 2,338文字

 消えた女が気になって、サトシは次の週も市場に来た。周囲が夕方の買い物客で賑わいを見せ始めた頃、今日もピアノは弾き手を待って佇んでいた。
 西瓜と金目鯛はとうの昔に食われた後だったが、八百屋の茄子と南瓜が出迎えた。サトシはラフマニノフの『鐘』を、曲の出だしを譜面とは異なる和音に変えて、静かに弾き始めた。

 曲のクライマックス、両手が一番忙しい時にあの女がやって来た。今日は黒のノースリーブのマキシドレス。サトシの右側に立って腕を組んで聴き始めた。残り七小節のところでスッとサトシの横に座った。右手の付点二分音符が奪われた。

「あっ」

 サトシは椅子から押し退けられ、左手の全音符も奪われた。サトシは女の左側に立たされた。女は振り返って悪戯っぽく笑った。譜面と異なるコードを弾いて転調し、ドビュッシーの『沈める寺院』を続けて弾いた。何かお返ししたいが又消えていなくなりそうだ。サトシは躊躇した。結局、女が弾き終わるのを待った。

 サトシは、演奏中に乗っ取られたことが面白くなかった。拍手しながら
「先週はチェシャ猫でしたが、今日はマッドハッターみたいですね」
と言った。
 女は、
「あたしゃナイトライダーじゃないわよ」
と言い、乱入されても黙って突っ立っていたのは根性無しだと嘲笑った。

「根性なしの三月ウサギさん」

 サトシも内心では根性無しだと思ったが
「一応ソーシャル・ディスタンスの時代ですから」
と応じた。

「それに、それマッドハッターじゃなくてマッドマックスです。僕が生まれる前の映画知っているなんて凄いですね、インターセプターさん」
と反撃に出た。女も少しムッとした。

 茄子と南瓜が固唾を飲んだ。

「ちょっと、私のことBBA扱いしないでよ、サ・ト・シさん。私あなたのこと知ってるけど、あなた私のこと知ってる?」

 サトシは女が自分の名前を言ったので驚いた。
……どこかのストピで声かけたっけ? それとも大学のサークル?
 
 女は、
「ストピでナンパばかりしているから顔見ても気づかなかったでしょ。私、サークルも同じだよ」
と畳みかけてきた。サークルは幽霊部員でしたからねと言ったが、
「あなた昨年はサークルの幹部だったじゃない。ウソつき!」
と攻撃の手を緩めない。

 ようやく思い出した。

 昨年の大学祭で、香港民主化運動への賛同と支持を表明する集会とコンサートが開かれた。サトシは『声なき声を結集して力になろう』と言って、ラフマニノフのヴォカリーズを弾いた。サトシの演奏の二つ後に、香港人の留学生が『父が逮捕され、友人も怪我したり逮捕された、みんな無事でいて欲しい。早く平穏な日々が戻って欲しい。集会に集まってくれた人々と共に祈ります』と、涙ながらに同胞へのメッセージを読み上げ、鐘と沈める寺院を弾いた。

「ああ、あの時の……」

 女はサトシが言いかけたのを遮るように、
「じゃあもう一度自己紹介するね。私は楊美麗(ヤン・メイリィ)。メイと呼んで。よろしく」
と言った。新型感染症禍のご時世でもあり、握手もグータッチもなかった。

 サトシは訊いた。
「何で乗っ取ったんですか?」
「人聞きの悪い言い方しないでよ。鐘はみんな教会に集まれっていう合図でしょ。だから集まったの」

 ようやく、メイに乗っ取られたのではなく、自分が乗っ取ったのだと気付いた。
「確か、あの時に鐘を弾いたんですよね」

「うん。帰っても父に面会出来るかどうかも分からないし、逮捕者の家族や友人も取り調べ受けるって聞いてたから、怖くて帰れなかった。だから会場に集まってくれた人達と一緒にお祈りしようと思って、鐘を弾いたの。沈める寺院は、混乱が早く収まりますようにって。そう祈って弾いたの」

 今度はメイが訊いてきた。
「あなたあの時ヴォカリーズ弾いたでしょ。なんで?」
「歌詞のない歌曲って好きなんですよ。言葉では表現できない感情や気持ちを伝えられそうな気がして……」
「ふーん、結構ロマンチストだね。じゃ、どうしてここで鐘を弾いたの?」

 サトシは返答に窮した。先週チェシャ猫のように消えた女が気になったから鐘を鳴らして呼んでみた、と言うのが本当のところだが、今はとても言えない。弾き映えのするコスパの良い曲だから遠征した時によく弾くのだと答えた。

 メイはゆっくりした口調で指折り数え始めた。
「教会の鐘が鳴るのは、日曜日の礼拝が始まる時、終わる時、結婚式の時、お葬式、朝の仕事が始まる時、お昼の合図、夕方仕事が終わる時、ナンパ野郎の悪巧み……」

 突然メイの口調が戦争ソナタのようになった。サトシを睨み付け、
「やっぱりね。カプースチンの一番も八番も弾き映えする曲。鐘もそう。曲と演奏の意味なんか考えない。よく分かった、あなたはストピを女を引き寄せる仕掛け罠としか思ってない、とんでもないナンパ野郎だ。この前だってカプースチン弾きながら私のことジロジロ見てたでしょ。どうせ私はド派手な格好した夜に片足突っ込んだ女よ、そんなに気になるなら引っかかってあげるわ。でもその前に--」
メイはグイと一歩踏み出して言った。

「懺悔しなさい。鐘弾いたでしょ」
 
 勢いに圧倒され、サトシは仕掛け罠にかかったウサギの如く捕獲された。
「はい、私は罪を犯しました。曲の意味をよく考えずに弾いてました」

「よろしい」
メイは厳かに言った。

 突然、瞳をキラキラさせて弾んだ声で
「美味しいもの食べよ、とびっきり美味しいもの。ごちそうさま」
と、サトシの腕に手を回してきた。サトシは怯んだ。なんなんだ、この女。

 ふと、メイの視線の先にある店から仄かに揚げ立てのコロッケの香りが漂ってくる。あれ?とサトシが指差すと、それ!とメイが頷いた。サトシは二つ買った。二人は熱々のコロッケを齧りながら駅の方に向かって〈銀座通り〉を歩き始めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み