第5話 ナンパ野郎のウサギさんが脱線人の踊りの収拾に努めたら大統領と呼ばれた

文字数 2,327文字

 夏休みが終わり、オンライン半分、対面半分ではあったが、大学の授業が再開した。サトシは図書館棟の食堂で、一人で遅い昼食を取っていた。背後から声がした。

「ナンパ野郎のウ・サ・ギさん」

 サトシは振り返った。メイだ。学内で会うのは、初めてではないだろうが、こうやって会うことは初めてだ。ジーンズにTシャツ姿、大きなバッグを肩から掛け、両手でトレーを持っていた。

「今日は派手な格好じゃないんだ」
 半世紀以上前の駄洒落が返ってきた。
「別人28号でしょ、そこ空いてる?」
「うん。どうぞ」
 メイはアクリル板で隔てられたサトシの隣の席にトレイを置いて座り、一方的に話し始めた。

「学部生の子でルナって名前の子がいて、漢字で書くとすると流菜とか瑠奈とか想像するでしょ、ところが『月』なのよ。ガツ、ゲツ、つきは一般的な読みとして辞書に載ってるから良いけど、形態素の音に縛られない新しい読みを、通称じゃなく正式の名前として認めるなんて日本はすごい。きっと三年後の辞書には月の新しい読み方として『るな』が載ってると思う」
 サトシはキラキラネームは好きではない。軽薄なイメージが強いからだ。戸籍名は文字だけでなく読みも基準を示すべきだと言った。メイは、読みに完全な基準はなく厳密にやれば方言や訛りもダメになり、それは言葉狩りになる。それに名前は記号だから、話し言葉なら音で、書き言葉なら文字で識別できれば良く、文字と音が一致していなくても名前としては機能する。だから……

 黙食の貼り紙と周囲の冷たい視線が気になって、食堂を出た。今はお喋りは悪行だ。二人は長い坂を下りながら喋った。

「だから、サトシのことナンパ野郎のウサギさんって呼ぶことにしたの。きっと戸籍名の読みとして登録できるよ」
「それ嬉しくない名前だな、それに脈絡不明だし」
「じゃあ何がいいのよ」
「サトシでいいよ」
「それ退屈でつまらない。退屈でつまらないのは嫌。もっと面白い名前にしようよ。例えばサギシ」
「全然嬉しくない。じゃあメイはサクシだ」
「別に良いよ〜 詐欺師と策士の悪巧み」
「一緒にしないでよ。それならコロッケとかの方がまだマシ」
「じゃあコロッケちゃん」
「メイは苗字が楊だし、やんちゃのヤンちゃん」
「嫌。五月生まれのメイだからサツキがいい」
「サツキならあそこにあるよ」
 サトシは向こうに見える山を指差した。
「僕がコロッケだからサツキイモ」
「どうせ私は芋よ。いいわよ、芋とコロッケのアツアツ連弾」
「弾きに行く?」
「行こ。でも、あの市場はもういいよ。別のところ行こ」
「じゃあ、大きな駅のストピ」
「うん、行こ!」

 目的地までの電車の中は静かにしていた。今は公共の場でお喋りできない。代わりにメッセンジャーアプリを使ってお喋りした。

(サトシ)何弾く?
(メイ) おかしなの
(サトシ)お菓子なの?
(メイ) お菓子の国
(サトシ)くるみ割り人形!
(メイ) 楽譜ある?

 サトシはタブレット端末を取り出し、楽譜をダウンロードした。

(サトシ)バレエ全曲版ピアノソロ
(メイ) おK牧場
(サトシ)もーっ

 メイはサトシの方を向いてニッと笑ったが、サトシはそれには応えなかった。二人は楽譜を眺めて制限時間に収める作戦を考えた。

(サトシ)序曲と行進曲、花のワルツのテーマでお終いだね。
(メイ) ツマラナイ。脱線する
(サトシ)脱線人の踊り!収拾不能
(メイ) マジ弾くど

 サトシはメイの方を向いて悲しげに首を横に振った。

 果たして、地下のエスカレーター脇に設置されたストリートピアノに着いた芋とコロッケは『くるみ割り人形序曲』を弾き始めたものの、次の『行進曲』で即脱線した。芋は『トレパック』だかボロディンの『韃靼人の踊り』だか分からないのをグチャグチャに弾き、コロッケは『金平糖の踊り』と『葦笛の踊り』で懸命に収拾を図った。そして、最後はなんとか『花のワルツ(風)』にまとめて弾き終えた。
 コロッケが脂っこいポテトコロッケになったと言ったら、芋はもっとかき混ぜてポテトグラタンにすべきだったと言った。サトシが新曲試奏の方がまだ楽だと言ったら、メイに月の沙漠でも弾いてろと言い捨てられた。

 メイが、お菓子の国はもう良いからご飯の国に行こうと言うので、もう一つ下の階にあるお洒落なフードコートで食事した。サトシはパスタを、メイはピザを頼んだ。メイがサトシのパスタを横取りしたため、途中からわんわん物語の有名な場面のようになった。せめて映画のように仲良く食べようよと言ったら、映画のようにあんたのこと大統領(トランプ)と呼ぶぞと返ってきた。それならもう少し淑女(レディ)になりなさいと応酬した。ここでも二人は周囲から冷たい目で見られた。

 メイが、ご出勤までまだ時間があるから主題曲の『ベラノッテ』弾きに行こうと言うので、ストリートピアノのところに戻った。サトシは、今度こそ脱線禁止だよと念押しし、静かなジャズにしようと言った。メイはねずみの国の遊園地のバイシクルピアノみたいに弾きたいと言い張り、サトシが折れた。演奏は脱線ぎりぎりの豪華絢爛バージョンになった。

 二人は駅ビルを出て、陽の落ちたオフィスビル街を歩いた。
「メイはねずみの国の遊園地に行ったことあるの?」
「一度だけ。バイシクルピアノの演奏聴いて、すごいなあと思ってずっと後をついて行った。聴いてる人を楽しくする演奏って勉強になるよね。リズムとか間合いとか。一度真似してみたいと思ってたの。ラウンジだとああいう演奏できないから。え、サトシ、ねずみの国の遊園地に連れてってくれるの? やったー」

 本日二回目の悲しげな顔をして、サトシは首を横に振った。メイは満足そうな顔をして、じゃあねと手を振りながら、夜の街に消えて行った。
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