第9話 メイとサトシは愛の巣で新生活を始めピアノの試験に備えて準備した

文字数 3,910文字

 桜の蕾が膨らみ始めた頃、メイとサトシは、二人の新しい住まいを探して、連日のように不動産屋を回った。大学から四駅離れたところに手頃な物件が見つかった。四十六平米の1LDK、二人可、築三十五年だがおしゃれにリフォームされていた。楽器は電子楽器なら可。

「ここ良いね。収納も多いし、結構広いしね。ここにしようよ」
「うん。そうしよう」

 引越しは、ピアノサークルの友人達が手伝ってくれた。彼ら彼女らは、もう部室出禁だ、同居するほど重症化したか、一生隔離だ、などと口々に祝福の言葉を投げかけた。

 サトシは持ち物が少なかったが、メイは物持ちだった。文献や書籍が大量にあった。夜の仕事のための衣装も、貸衣装屋ができると思える程に持っていた。演奏会ではとても着れそうにもない派手なものは個人売買のサイトで売って減らしたが、それでもドレスとシューズとバッグが部屋に溢れかえった。二台の電子ピアノが部屋の中央に鎮座していて、ますます足の踏み場がなくなった。

「まるで、メイが何人もいるみたいだね」
サトシは衣装がずらっと掛けられたハンガーラックを見て言った。

「綺麗なドレスに囲まれて嬉しいでしょ」
「アリスに出てくるトランプの兵隊みたいで、襲って来そうで怖いよ」
「オレンジのワンピは残したよ。サトシのお気に入りだしね」
「もうあの曲は弾かない」
「嘘つけ、このナンパ野郎」
 
 メイが、ピアノ二台になったから、二台のピアノのための曲弾こうよと言った。

「そうだね、ラフマニノフはどう?」
「あれでしょ、アメリカに亡命した後、ご夫婦で演奏旅行して回ってた時に弾いてたって曲」
「そうそう、作曲したのは亡命前だけどね」
「あれってラブラブだよね」
「噂では、曲の中に二人だけにしかわからない暗号が隠されていて、それで会話してたんだって」
「例えば?」
「今日の晩御飯何にする?」
「そんな訳ねえだろこの嘘つき野郎!」
「そう言わずに、ラブラブな暗号探してみようよ」

 タブレット端末も二台に増えていた。二人は各々楽譜をダウンロードし、向かい合わせに置いた電子ピアノに向かった。

 ラフマニノフの『二台のピアノのための組曲第一番』は絵画的な作品で、四曲から構成されている。最初の三曲は大体七分位、最終曲は三分位だ。二人とも初めての曲だったので、譜面を読むところから始めた。メイが各曲についている詩(エピグラフ)に反応した。

「エロい詩だね、特に二曲目」
「だね。この曲はいつぞやメイがご所望したグラナドスの曲に似てるかも」
「あー、『嘆き、またはマハと夜鳴き鶯』かあ。それより絶対にエロい」
「メイ、この曲がいいの?」
「いや、サトシが好きかなと思って」
「僕は一曲目のバルカローレの方が良いな」
「じゃあそうしよ。メイも二曲目はエロすぎて恥ずかしくて弾けない」
他人(ひと)にはこういう曲を弾けって言うくせに」
「だってサトシはエロい曲上手いんだもん」

 話し合うまでもなく、メイが一台目のパート、サトシが二台目のパートになった。連弾の時も、メイは右側、サトシが左側だ。二人は、ゆっくりした速度で演奏を合わせながら練習を始めた。

「メトロノーム使うのって何年ぶりだろうね」

 今やメトロノームもアプリの時代だ。『大きなノッポの古時計』的な装置は歴史的遺物だ。スマートフォンがカチカチと拍子を刻んだ。

 バルカローレ(船歌)は、一台目のピアノが、ゴンドラのオールがゆったりと水をかく場面を奏でるところから始まる。そこへ二台目のピアノが、ゴンドラに乗った二人が愛を語り合うかののような叙情的なメロディを奏でる。オールの掻き上げる水飛沫が優しく跳ね、小刻みに震える水面に反射する太陽の煌めきが、気怠い昼下がりの雰囲気を醸し出す。

波飛沫(なみしぶき)が太陽の光に反射してキラキラしているところ良いね」

 メイが煌めきの早い音の並びを弾きながら言った。

 途中で、何度か一台目と二台目の役割が交代する。メイがゴンドラを漕ぐ番になった。練習のはずだったがバトルになった。

「ちょっと、ゴンドラの船頭さん。そんなに飛ばさないでよ」
「おりゃあ、ボートレースじゃあ。まくるど」
「ちょっと、メイ。そんな言葉どこで覚えたの」

 サトシはベネチアの優雅な水路から、いきなり競艇場の猥雑な喧騒に叩き込まれた。メトロノームが全く意味をなさない。本当はゴンドラに乗る二人が楽しく語りあう場面なのだが、船が早すぎて、音が滑る。

「メイ、このままじゃ転覆するよ」
「沈め沈めえ」

 もう一度役割が交代した。仕切り直して、速度を元に戻した。再び競艇場から風情溢れる水路に戻った。

「暴走禁止。メイはフライングで失格」
「ふぁーい」

 船上の二人の会話が楽しく絡み合うところは、もう少し早めに弾いても良いのだが、船頭役のサトシは速度を落として弾いた。

「ねえサトシ、眠たくなって船から落っこちそう」

 曲の後半に延々と続く煌めきの所は、さすがのメイも疲れたようだ。

「もうこれ以上キラキラ出来ない」
「飛ばしすぎるからだよ。ここが山場なんだから音を合わせてゆっくり弾こうよ」
「分かった〜」

 この曲に競艇場の暗号が隠されていたとは、これまで誰も気付かなかっただろう。二人は一週間ほどで弾きこなせるようになった。


協奏曲(コンチェルト)も演ろうよ」
「そだね。ピアノが二台あるといろんな事できていいね」
「何やる?」
「皇帝が良い。メイはあの曲好きだから」
「弾いたことあるの?」
「うん、高等部二年の時に弾いた。二台のピアノだったけどね」
「じゃあ大丈夫だね。でも僕は初めてだから、伴奏は練習しないとダメだな。通しは無理だと思うから、一楽章か三楽章か選んでよ」
「三楽章のロンドがいい。出だしが好きだから」
「おK」

 最初、サトシは伴奏に手こずった。言い方は良くないが、ピアノ協奏曲の二台のピアノ用の譜面には、伴奏パートが手抜きのものが散見される。本番でオーケストラをバックに演奏するまでの間、ピアニストにオーケストラと音を揃えるポイントであったり、掛け合いとなるところの間合いの取り方を練習してもらうために書かれているのだから、当然といえば当然なのだが、完成形として聴いて楽しむためには、伴奏パートの音数が足りないことが多い。サトシは伴奏パートに音を加えたり、変えたりと試行錯誤を繰り返した。メイはあたしゃ弾いてるだけで十分楽しいからそこまで凝らなくても良いよ、と言ったが、サトシは弾いて嬉しい、聴いて楽しいを目指したいと言って、時間をかけて練り上げた。なんとか一日で仕上がった。

 メイが、
「なんだか伴奏の方が目立つようになったね」
と言った。
 サトシは
協奏曲(コンチェルト)なんだからそれで良いんだよ」
と言い、
競争曲(レース)はさっきやったしね。狂騒曲(パリピなの)もたまに弾いてるけど」
と付け加えた。メイは、
「サトシの駄洒落、最近おっさんみたくなってきた」
と憂慮した。

「サトシもコンチェルト何か弾こうよ。メイが伴奏するから」
「お、メイが伴奏に廻るのは珍しい。じゃあ、プロコフィエフ三番の一楽章」
「えー、あれは結構難しいよ。サトシ弾いたことあるの?」
「一度もない。でも、ピアノやってたら一度は弾いてみたいと思うよね、コンチェルト」
「うん。オーケストラをバックに思いっきり弾いてみたいね。メイはチャイコフスキーとラフマニノフが良いな」
「僕はプロコフィエフとバルトーク」
「難曲ばっかだね」
「難局を打開したと思ったら難曲物語が待っていた」
「あー、力抜けた。プンプン!」
「違うよ、母親のピアノの試験のことだよ」
「話題をすり替えるのうまいね」
「それはお互い様。母親から連弾ってお題が出てるからね」

「サトシ何考えてんの」
「うん、母親のピアノ教室。連弾を売りに出来ないかって」
「どういうこと?」
「普通の連弾に加えて、ツーハンド、即興連弾、ピアノ二台もの、協奏曲。これくらいメニューがあれば教室として特徴出せるかなって思ってね。小さい子供にこういう教え方すると悪い癖が付くからダメだけど、最近シニアの人が増えてきてるから、上手くなるより、楽しく弾きたいって人多いと思うんだよね」
「それいいね。メイが習った三人目の先生がそんな感じだった。そうか、課題曲だからって受け身で弾くだけじゃなく、提案しようと」
「そうなんだ。だから僕たちがいつもやってる連弾をお披露目しようかなと思ったんだ」
「うん、そうしよ」

 ツーハンドはラヴェルのソナチネ、二台のピアノ曲はラフマニノフ、協奏曲はベートーベンの皇帝。即興連弾はねずみの国メドレー。

「あたしら、結構真面目にやってるね」
「そりゃそうだよ。試験に落ちたら、ホームレス」
「段ボール箱に入ってミャーと鳴く」


 新年度が始まり、メイは大学院二年目、サトシは学部四年になった。

 メイは修士論文の目処が立っていなかった。研究計画書すらまとまらない。研究対象に方言や訛りが含まれるため、地方の公立図書館や資料室巡りは欠かせない。ところが、多くの公立図書館が感染症のため休館になっている。直接文献にあたることも、インタビューもできないまま、時間が過ぎていた。メイは研究計画を変えるか、感染症が収まるのを待つかの選択を迫られていた。

 サトシは就活が進んでいなかった。エントリーシートの出来がイマイチで、この期に及んで何度も書き直していた。それにオンライン面談は失敗の連続だった。ガクチカ(注:学生時代に最も力を入れたこと)でピアノサークルの話をしても全く受けなかった。
 その一方で卒業論文は良い感じだった。一回目の中間報告が終わっていた。指導教授からこれなら大学院に進むのも可能だろうと言われた。サトシは進学のことは考えないように、悔いのない論文にしようとだけ考えていた。
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