第16話 メイは身に覚えのない罪で逮捕、収監された

文字数 2,292文字

 メイは生家に戻った。家の中は綺麗になり、家具や遺品の整理も終わっていた。三人で今後について話し合った。この家は売ることにした。遺産はメイとナニーで折半する。母は離婚時に財産分与済みだった。不動産の売却を含む残りの手続きは、弁護士に付託した。母とナニーはそれぞれの国に帰って行った。

 数日後。家の売却先も決まり、先ほど不動産管理会社が引き渡し前の最終確認に来た。メイは一人空っぽになった部屋に残って、父との思い出の詰まったこの部屋と最後のお別れをしていた。

(そう、廊下から歩いてきて、リビングルームのこの位置で父の方に向かってお辞儀した。父は嬉しそうに拍手してくれた)

 ピアノの発表会が近くなると、ステージで転ばないようにとドレスを着てシューズも履いて歩く練習をした。
 ピアノの発表会は年二回ほどあった。ほぼ毎回父が見に来てくれた。父が聴いてくれているステージで演奏するのが楽しみだったし目標でもあった。父は発表会のたびに新しいステージドレスを買ってくれた。発表会が近くなると、父とドレスを選びに銅鑼湾(トンローワン)のお店に行った。父の方が熱心に選んでいた。
 初等部三年の時、父が仕事の都合で発表会に来れなくなった。会場の隅で一人黙ってぼんやりと待った。ようやく順番が回ってきた。曲は幻想即興曲だった。この発表会のために父が買ってくれた、大人の雰囲気のちょっと大胆な赤いロングドレスの裾を指先でつまんで少し持ち上げ、ステージ中央のピアノの方に歩いて行った。ステージを照らすスポットライトが太陽のように眩しく熱い。太陽の方に向かってお辞儀をした。椅子に座って弾き始めた。高速で流れるような運指、緩急のコントラスト、完璧に弾けたと思った。再び太陽にお辞儀をしてステージ袖に帰ろうとしたその時、慣れないロングドレスの裾に躓いた。後に、この時の転び方はコメディ映画のように見事なものだったとは思ったけど、その時は何が起こったか分からなくなった。客席からドッと笑い声が飛んできて我に返った。逃げるようにステージ袖に走りこみ、緞帳の陰でワっと泣いた。家に帰った後も、父が来てくれれば転ばなかったのにと駄々っ子のように泣いた。父は謝り、これからは欠かさず行くからと約束してくれた。転ばないで歩けるように一緒に練習しよう、そう言ってくれた。それからは、発表会の前にドレスを着て歩く練習をした。

 メイは父の方に向かって、お辞儀をした。

 その時だった。誰かが家に入ってきた。鍵は不動産管理会社に渡した後で、施錠していなかった。スーツ姿の男性が二人、女性が一人。

「香港警察の者です。楊美麗さんですね」
メイは頷いた。一人が警察の身分証明書を提示した。

「貴方の亡父、楊安頓について伺いたいことがあります。同行願います」

 車は警察車両ではなく、普通のワンボックスだった。メイは後部座席の中央に座らされ、左側に女性刑事、右側に男性刑事が座った。もう一人の刑事が車を運転した。車は中環にある警察本部の建物に入った。

 メイは地下の駐車場で車を降りた。車の中でメイの両隣に座っていた刑事に、窓のない部屋に連れて行かれた。暴力的でも威圧的でもなかったが、無言の圧力があった。部屋の中央に、上から見るとHの形をしたアクリル版の衝立が乗った机があった。その両側に置かれた椅子の片方に座るよう促された。二人の刑事は部屋の隅に立ったままでいた。暫くして、別の男が入ってきた。男は空いている方の椅子に座ると、アクリル板の向こうに見えるメイに向けて何かの書面を提示し、話しかけた。

「楊美麗さん、お時間は取らせません。要点は二つです。我々は貴方が、亡父、楊安頓から国家反逆にかかる情報を受け取り、秘匿していると承知しています。今ここでその情報の内容及び所在について説明してください。二つ目は、貴方は父の後を継いで国家反逆活動を先導するため日本から帰港した疑いが持たれています。ついては貴方のこれまでの活動及び今後の計画について説明してください」

 メイにとって全く身に覚えのない話だった。それに香港に戻ったのは父の葬儀のため。国家反逆活動って何なのよ。

 男が話をしている横で、もう一人の刑事が所持品の確認をさせていただきますと言って、壁際の台の上に置かれたメイの鞄を開け、所持品を一つ一つ確認し始めた。パスポート、香港IDカード、スマートフォンは没収された。

「それでは、身体検査をさせていただきます」
部屋に女性刑事だけが残り、メイに着ているものを脱ぐように言った。突然のことに驚きメイは泣き出した。女性刑事はお構いなしに検査を続けた。検査が終わった後、メイは留置場に連れて行かれた。

 取り調べは毎日、朝早くから夜遅くまで続いた。父の葬儀のため香港に帰ってからの行動以外は、メイは分からないとだけ答えた。ホン氏のことは、言われた通りに投資口座の解約の相談に行ったと話した。他の質問は、知らないことは喋りようがないし、こういうときは何も喋らないのが良いと友人が言っていたので黙秘した。取調官は何かの書類に署名するように迫った。メイは拒否した。こんな書類に署名したら、自分は犯罪者にされてしまう。

 日付と時間の感覚が麻痺し始め、意識が朦朧としてきたその隙に、メイは調書に署名させられてしまった。その日のうちに裁判が行われた。裁判では弁明の機会も与えられず、弁護人の発言すらなかった。翌日、判決が言い渡された。禁固刑二十ヶ月。国家安全にかかる機密情報の秘匿、隠滅がその理由だった。

 メイは自分が生まれた頃に父が送られた懲教所のすぐ隣にある女子懲教所に送られた。
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