第20話 その人物はサトシのことをメッセンジャーボーイと呼んだ

文字数 2,869文字

 法律事務所を出たサトシは、海沿いの遊歩道を中環のフェリーターミナルに向かって歩いていた。先ほどのソシリタの話が引っ掛かっていた。スパイ容疑、情報の秘匿と隠滅…… サトシはハっとした。まさかUSBメモリ……。サトシの背筋に冷たいものが走った。
 手紙と報告書とUSBメモリはすぐにバックパックの奥に仕舞った。問題はホン氏と思しき人物に会った時にどこまで喋るかだ。メイの父の友人であり、メイと会ったことが確認出来るまでは迂闊に話せない。

 中環のスターフェリーの乗り場に着いた。ソシリタから教えられた人物のオフィスはここから目と鼻の先にあるが、今日いきなり訪問するのは止めて、作戦を練ることにした。サトシは美麗都大厦のゲストハウスに戻り、ベッドに寝転がって考えを巡らせた。


 香港でメイの消息の探索を始めてから四日目、サトシは中環の高層ビルの前にいた。メイの父の手紙に『友人にして金融投資に卓越した才能を持つ、恐らく最後の活動家となろう人物』と書かれていた、ウィル・ホンという人物に会うためだ。サトシは手紙に書かれたその名前から、法律事務所のソシリタの力を借りて、経営する会社の名前と住所を得た。

 正面玄関の入り口のところに警備員がいて、ビルのIDカードを持っていない訪問者は訪問先と予約の有無を確認している。このまま中に入ることは躊躇されたが、思い切って入り口に向かった。案の定警備員に予約のない面会はダメだと押し返された。サトシは自分は日本から来て、香港に帰ったきり行方不明になった恋人を探している。彼女は活動家ではなかったが、逮捕収監された。彼女の現在の消息を追う手がかりは訪問先の人物だけなのだ。サトシは食い下がった。

 その警備員は三年前に自分の息子が逮捕勾留された時のことを思い出した。あの時息子は一週間行方が分からなかった。方々問い合わせてやっと息子が警察に連行されたことを知った。警察署の前で面会を求めたが暴力的に追い返された。釈放された時、息子の行動を厳しく叱った。あれ以来息子とは口を聞いていない。自分も息子も香港の行く末を心配していた。若気の至りで暴力的になったのはいただけないが若さならではの情熱は理解すべきだった……

 警備員はサトシに告げた。
「受付はあそこだ。そこで断られたら速やかに退出しろ」

 受付嬢は怪訝な顔をしたが、彼女の職業的手順に従って事務的に連絡を入れた。日本人の青年、ウィル・ホン氏について書かれたアントニー楊氏の手紙。三分ほど待たされた。彼女は流暢な英語で、今迎えが来るので、ここで待つようにと言った。サトシは来訪者用のIDカードを受け取った。サトシは後ろを振り返った。扉のところの警備員がこちらを見てサムズアップした。サトシは笑顔で小さく頷いた。
 別の警備員がやってきた。俺について来いと言う。セキュリティゲートを抜けて高層階用エレベーターで六十八階まで一気に上がった。耳の空気がうまく抜けない。エレベーターホールのところで黒いスーツの男が待っていた。お目当ての人物ではなく、ここからは俺が案内する、と言った。生体認証のついた扉を抜け、長い廊下を歩き、小さな応接室に案内された。ここで待てと言って男は部屋を出て行った。若くて可憐な女性が紅茶とクッキーの載ったトレーを持って入ってきた。少し待つと思うので、それまでアフタヌーンティでもどうぞ。サトシは笑顔でお礼を言った。どこからか、このナンパ野郎! と言う声が聞こえた……ような気がした。

 待っている間、サトシは窓から外を見た。海を隔てて反対側、九龍の高層ビル群がよく見える。地上は遥か下で道行く車も小さい点にしか見えない。ビクトリアハーバーを大型客船がゆっくり通過していく。その間を縫うように大小様々な船が行き交っている。サトシがいるビルのすぐ上を、ヘリが爆音と共に通過して行った。

 三十分近く待った。部屋の扉が開いて初老の紳士が入ってきた。サトシの父と同年代くらいだ。

「君がメッセンジャーボーイか」

 サトシは簡単に自己紹介し、メイとの関係、手紙を預かった経緯を話した。念の為、手紙のコピーと件のソシリタの調査報告書を持ってきていた。ホン氏はそれらを一読して言った。私は一介のビジネスマンだ。ここに書かれている活動家というのは何かの間違いだろう。君の恋人のお父さんとは、……旧い友人だった。彼が亡くなったのは残念だ。君の恋人とは、……昨年、葬送式で会ったが、それ以来会っていない。逮捕収監されたとは知らなかった。念のためUSBメモリを確認させてもらおうか、それからパスポートも。ホン氏はサトシに手を差し出した。サトシはバックパックからUSBメモリとパスポートを取り出し、USBメモリにはパスワードがかかっていて僕には解析できませんでした、メイなら分かるんだと思います、と告げながら渡した。ホン氏はサトシのパスポートを確認し、すぐに返却してくれた。そして、少々失礼すると言って部屋を出て行った。

 サトシは、メイの父が昨年亡くなったことをあえて話さなかった。件の調査報告書もメイの父のことは一切触れていなかった。そこで、メイの父が故人であることを知っているかどうかで、お目当ての人物で間違いないかを判断することにしていた。果たして、ホン氏はそのことを知っており、葬送式でメイに会ったと言うのを聞いて、お目当ての人物で間違いないと判断し、USBメモリを渡した。ただ、この先どういう展開になるのかについては予想もつかなかった。フォーサイスの小説でも読んでいれば、多少予想できたかもしれないが、サトシの知識と経験はピアノとコンピュータ処理プログラムに特化しすぎていた。

 五分後、ホン氏は部屋に戻ってきた。手紙のコピーと報告書はお返しする、USBメモリは暫くの間預かるという。メイの消息は今すぐには分からないが、メイの父とのよしみで調べてみよう。ところで君のホテルはどこかと聞くので、尖沙咀のゲストハウスに泊まっていると答えた。ホン氏は、それはまずい、運んで来たブツに見合う安全確保(セキュリティ)は必要だ。君は私の会社の見込み顧客ということでホテルを用意する。手紙とUSBメモリのことは君と私だけの秘密だ。それからさっきの調査報告書もだ。聞かれても何も言わないで欲しい。彼女の居場所が分かるまで数日かかるだろうから、それまでホテルに滞在して待つといい。君はこれまで香港に来たことはあるかね、と言った。サトシは、香港は初めてだと答え、メイの生家のあった将軍澳、それによく遊びに行ったという旺角周辺をもう少し探索するつもりです、と言った。ホン氏は、それならホテルは九龍側が良いだろうと言った。サトシをエレベーターホールからこの部屋まで案内した黒いスーツの男が呼ばれた。何やら会話しているが広東語なので分からない。
 それじゃミスターサトシ、後はこの男が結果を君に伝えるから、それまでの間、今の香港を見ていくと良いだろう。

 紳士は部屋から出ていった。後にサトシと黒いスーツの男が残された。
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