第4話 愛の言葉と嘆きから闘牛と軽メンのバトルに発展した
文字数 2,703文字
次の週も、サトシは件の市場にストリートピアノを弾きに来た。最近はカプースチンにご執心で、今日は二十三番の前奏曲を弾くつもりだった。
果物屋の夏蜜柑の他に、先客がいた。女の子三人組。近くの音楽大学の学生のようだ。一人がショパンを弾いていて、後の二人は秋の試験について話している。片方の子がまだ曲を決めていないといって、もう一人の子から早くしなよと言われている。ゴイェスカスで良いじゃない、もう間に合わないよ……
「あのー、演奏待ちですか?」
「いえ、私達おしゃべりしているだけなので」
「じゃあ、じゃあ次弾かせてもらっても良いですか」
「どうぞどうぞ」
サトシが会話に割り込んだことで、女の子達のお喋りが止まった。何か話さないと間が持たない。
「みなさん音大の方ですか?」
「そうです。私たち三人ともピアノ科です」
「そうなんですね。いや、ゴイェスカスってちょっと聞こえたものですから」
「そうなんですよ。秋の試験の課題曲に入ってて、どうしようかって言ってたんです」
「大変ですね。ゴイェスカス。結構難しい曲が多いから」
「おまけにこの子、課題曲の登録も出遅れちゃっているから」
ショパンを弾いていた子が演奏を終えて会話に参加した。
「そうなんですね。でも加点ポイント狙うならありでしょうね。ゴイェスカス選択する人少ないと思いますし」
「そうなんですよ。出遅れちゃってるから、定番の課題曲だと練習不足で減点ばかり取られるし……」
突然、どこかで聞いた声がした。
「あーっ、サトシ浮気してる」
違うよ。それに浮気って何だよ、付き合ってもいないのに。
「このナンパ野郎!」
メイは先週と同様、有無を言わさぬ勢いでサトシに詰め寄ってきた。肘鉄はなんとか回避した。
ごめんなさい、失礼しました。女の子達はそそくさと退散していった。
メイは、サトシが抗議しようとするのを遮ってピアノに向かい、座るや否や、ゴイェスカス組曲第一曲の『愛の言葉』を弾き始めた。演奏される機会のあまり多くないゴイェスカスをここで弾くということは、サトシ達の会話を盗み聞きしていたことに他ならない。
(性格キツいよなあ。それに今日もピンクの、ど派手ファッションだ。そりゃ女の子たち逃げるわ。僕も逃げたくなってきた)
サトシはメイの演奏する姿を眺めながら独りごちた。
ふと、メイが譜面も用意せず暗譜で弾いていることに気付いた。
(難しくて、確か四百小節近くある、十分ほどの長い曲だ。五十小節以下の短い曲とは訳が違う。長い曲を暗譜で弾けるという事は、現在進行形で弾き込んでいるか、ここ一番という時のための「勝負曲」ということだ。メイが弾き終わったところで聞いてみたい)
質問の機会は訪れなかった。演奏を終えたメイは、椅子に座ったまま詰問口調で話しかけてきた。
「ナンパ野郎は弾いたの?」
「まだ」
「なんだ、弾かずナンパかあ。最低」
「じゃあ弾くよ」
「ナンパに失敗したからって不貞腐れなくてもいいでしょ。じゃあ連弾しよっ」
「いや、今日はいいよ」
「逃げたなぁ、このいじけナンパ野郎。じゃあ早く弾きなよ。ゴイェスカス対決」
メイは椅子から立ち上がった。
「はいはい」
サトシは二つ返事で、オペラの方のゴイェスカスから一幕の間奏曲を弾き始めた。三拍子の、弾きやすくアレンジもし易い曲だ。ワルツを弾いている途中に混ぜ込む、スペイン風味のスパイスとして時々使っている。
が、今日は弾いている途中で気が変わり、ビゼーのカルメンから『闘牛士の歌』を、第一主題をノリノリのラグタイムにして弾き始めた。
メイは、演奏中のサトシに体当たりせんとばかりに迫った。
「もーっ、ゴイェスカスって言ったでしょ」
「今なんて言った?」
サトシは闘牛士の歌の第二主題を静かなジャズ調にして弾きながら、お返しとばかりにメイの方を向いてニヤっとした。
メイはしまったという顔をしたが、次の瞬間吹き出した。そして、両手の人差し指で角を作りながら、もう一度もーと言ってサトシの右隣に座り、唐突に『ハバネラ』を弾き始めた。サトシも負けじとメキシコ音楽 風の伴奏で応酬した。
弾き終えた二人は、椅子に並んで座ったまま喋った。
「なんで組曲に入ってない間奏曲なのよ。まあ、闘牛士は軽メンにはお似合いだけどね」
サトシは、その言葉には反応せずに聞いた。
「愛の言葉は、メイの得意曲なの?」
我が意を得たりと、投げキッスのポーズをしながらメイが答えた。
「そだよ。愛の言葉は得意だよ。サトシにも掛けてあげる」
「ここは夜のお店じゃないんだから。演奏の話だよ。暗譜で弾き切るってすごいなと思って」
「そんなことないよ。じゃあサトシも弾いてよ。ゴイェスカスのラブラブなのを」
「組曲はあまり知らないんだ」
「だ〜め。『嘆き、またはマハと夜鳴き鶯』弾いて」
「やれやれ、嘆き、夜逃げしたくなってきた」
「弾いてくれたら裸のマハやってあげるよ」
「何それ?」
「ナンパ野郎なら泣いて喜ぶでしょ、ウグイスちゃん」
「あのさ、自信過剰にも程がある。大体--」
「うるさい。さっさと弾けよぉ」
ゴイェスカスはあまり弾いたことがなかった。サトシは、メイの体当たり攻撃を避けるかのように身をかがめて、バックパックからタブレット端末を取り出し、楽譜をダウンロードした。
「なになに、それ何?」
攻撃をかわされて体勢を崩し、サトシに抱きつくような格好になったまま、メイはサトシの手からタブレット端末を取り上げた。譜面をペラペラめくりながら、ふーん、便利だねと言った。譜めくり手伝ってあげようか? 大丈夫、ペダル持ってるから。ペダルもあるんだ。さすが軽メン、ナンパグッズ完備だね。
サトシは、譜めくりペダルを取り出して床に置いた。そして闘牛さんご所望の、これまでの会話にはおよそ似つかわしくない叙情的な曲を弾き始めた。メイもその演奏に聞き惚れた。
曲の余韻が冷めやらぬ中、メイは、サトシこういうエロい曲弾くの上手いよね、と言った。
「どこが」
「だってこれ夜の曲でしょ、夜といえばアレでしょ。アレと言えばエロでしょ」
「メイ、その三段論法おかしいよ。それに後半はウグイス鳴いてるだけだよ」
「ウグイス鳴いてる時、家の中で何やってるか分かるでしょ。それに中盤の嘆きのところも、どエロ」
「日本語もおかしいよ、せめてエモいって言ってよ」
「やっぱナンパ野郎だよね。ここで女の子落としてウグイスみたいに鳴かせてやろうってのがバレバレ」
「ちょっとメイ、僕にいじわる言うためにこの曲リクエストしたの?」
「うん、まあね。あ、ちょっと。サトシ、待ってよ。逃げんなこらー」
果物屋の夏蜜柑がポカンと口を開けて二人を見送った。
果物屋の夏蜜柑の他に、先客がいた。女の子三人組。近くの音楽大学の学生のようだ。一人がショパンを弾いていて、後の二人は秋の試験について話している。片方の子がまだ曲を決めていないといって、もう一人の子から早くしなよと言われている。ゴイェスカスで良いじゃない、もう間に合わないよ……
「あのー、演奏待ちですか?」
「いえ、私達おしゃべりしているだけなので」
「じゃあ、じゃあ次弾かせてもらっても良いですか」
「どうぞどうぞ」
サトシが会話に割り込んだことで、女の子達のお喋りが止まった。何か話さないと間が持たない。
「みなさん音大の方ですか?」
「そうです。私たち三人ともピアノ科です」
「そうなんですね。いや、ゴイェスカスってちょっと聞こえたものですから」
「そうなんですよ。秋の試験の課題曲に入ってて、どうしようかって言ってたんです」
「大変ですね。ゴイェスカス。結構難しい曲が多いから」
「おまけにこの子、課題曲の登録も出遅れちゃっているから」
ショパンを弾いていた子が演奏を終えて会話に参加した。
「そうなんですね。でも加点ポイント狙うならありでしょうね。ゴイェスカス選択する人少ないと思いますし」
「そうなんですよ。出遅れちゃってるから、定番の課題曲だと練習不足で減点ばかり取られるし……」
突然、どこかで聞いた声がした。
「あーっ、サトシ浮気してる」
違うよ。それに浮気って何だよ、付き合ってもいないのに。
「このナンパ野郎!」
メイは先週と同様、有無を言わさぬ勢いでサトシに詰め寄ってきた。肘鉄はなんとか回避した。
ごめんなさい、失礼しました。女の子達はそそくさと退散していった。
メイは、サトシが抗議しようとするのを遮ってピアノに向かい、座るや否や、ゴイェスカス組曲第一曲の『愛の言葉』を弾き始めた。演奏される機会のあまり多くないゴイェスカスをここで弾くということは、サトシ達の会話を盗み聞きしていたことに他ならない。
(性格キツいよなあ。それに今日もピンクの、ど派手ファッションだ。そりゃ女の子たち逃げるわ。僕も逃げたくなってきた)
サトシはメイの演奏する姿を眺めながら独りごちた。
ふと、メイが譜面も用意せず暗譜で弾いていることに気付いた。
(難しくて、確か四百小節近くある、十分ほどの長い曲だ。五十小節以下の短い曲とは訳が違う。長い曲を暗譜で弾けるという事は、現在進行形で弾き込んでいるか、ここ一番という時のための「勝負曲」ということだ。メイが弾き終わったところで聞いてみたい)
質問の機会は訪れなかった。演奏を終えたメイは、椅子に座ったまま詰問口調で話しかけてきた。
「ナンパ野郎は弾いたの?」
「まだ」
「なんだ、弾かずナンパかあ。最低」
「じゃあ弾くよ」
「ナンパに失敗したからって不貞腐れなくてもいいでしょ。じゃあ連弾しよっ」
「いや、今日はいいよ」
「逃げたなぁ、このいじけナンパ野郎。じゃあ早く弾きなよ。ゴイェスカス対決」
メイは椅子から立ち上がった。
「はいはい」
サトシは二つ返事で、オペラの方のゴイェスカスから一幕の間奏曲を弾き始めた。三拍子の、弾きやすくアレンジもし易い曲だ。ワルツを弾いている途中に混ぜ込む、スペイン風味のスパイスとして時々使っている。
が、今日は弾いている途中で気が変わり、ビゼーのカルメンから『闘牛士の歌』を、第一主題をノリノリのラグタイムにして弾き始めた。
メイは、演奏中のサトシに体当たりせんとばかりに迫った。
「もーっ、ゴイェスカスって言ったでしょ」
「今なんて言った?」
サトシは闘牛士の歌の第二主題を静かなジャズ調にして弾きながら、お返しとばかりにメイの方を向いてニヤっとした。
メイはしまったという顔をしたが、次の瞬間吹き出した。そして、両手の人差し指で角を作りながら、もう一度もーと言ってサトシの右隣に座り、唐突に『ハバネラ』を弾き始めた。サトシも負けじと
弾き終えた二人は、椅子に並んで座ったまま喋った。
「なんで組曲に入ってない間奏曲なのよ。まあ、闘牛士は軽メンにはお似合いだけどね」
サトシは、その言葉には反応せずに聞いた。
「愛の言葉は、メイの得意曲なの?」
我が意を得たりと、投げキッスのポーズをしながらメイが答えた。
「そだよ。愛の言葉は得意だよ。サトシにも掛けてあげる」
「ここは夜のお店じゃないんだから。演奏の話だよ。暗譜で弾き切るってすごいなと思って」
「そんなことないよ。じゃあサトシも弾いてよ。ゴイェスカスのラブラブなのを」
「組曲はあまり知らないんだ」
「だ〜め。『嘆き、またはマハと夜鳴き鶯』弾いて」
「やれやれ、嘆き、夜逃げしたくなってきた」
「弾いてくれたら裸のマハやってあげるよ」
「何それ?」
「ナンパ野郎なら泣いて喜ぶでしょ、ウグイスちゃん」
「あのさ、自信過剰にも程がある。大体--」
「うるさい。さっさと弾けよぉ」
ゴイェスカスはあまり弾いたことがなかった。サトシは、メイの体当たり攻撃を避けるかのように身をかがめて、バックパックからタブレット端末を取り出し、楽譜をダウンロードした。
「なになに、それ何?」
攻撃をかわされて体勢を崩し、サトシに抱きつくような格好になったまま、メイはサトシの手からタブレット端末を取り上げた。譜面をペラペラめくりながら、ふーん、便利だねと言った。譜めくり手伝ってあげようか? 大丈夫、ペダル持ってるから。ペダルもあるんだ。さすが軽メン、ナンパグッズ完備だね。
サトシは、譜めくりペダルを取り出して床に置いた。そして闘牛さんご所望の、これまでの会話にはおよそ似つかわしくない叙情的な曲を弾き始めた。メイもその演奏に聞き惚れた。
曲の余韻が冷めやらぬ中、メイは、サトシこういうエロい曲弾くの上手いよね、と言った。
「どこが」
「だってこれ夜の曲でしょ、夜といえばアレでしょ。アレと言えばエロでしょ」
「メイ、その三段論法おかしいよ。それに後半はウグイス鳴いてるだけだよ」
「ウグイス鳴いてる時、家の中で何やってるか分かるでしょ。それに中盤の嘆きのところも、どエロ」
「日本語もおかしいよ、せめてエモいって言ってよ」
「やっぱナンパ野郎だよね。ここで女の子落としてウグイスみたいに鳴かせてやろうってのがバレバレ」
「ちょっとメイ、僕にいじわる言うためにこの曲リクエストしたの?」
「うん、まあね。あ、ちょっと。サトシ、待ってよ。逃げんなこらー」
果物屋の夏蜜柑がポカンと口を開けて二人を見送った。