第10話 メイとサトシはサトシの実家を訪れ母親の試験に臨んだ

文字数 5,182文字

 ゴールデンウィークのある日、サトシとメイは、メイと両親との顔合わせと、引越しと同居の報告とお礼のため実家を訪れた。これまでサナエが感染症が怖いから帰ってこないでと言っていたので、メイを両親に会わせることすらしていなかったのだ。
 サトシの両親は二人の訪問を待ち構えていた。挨拶もそこそこにピアノ教室の部屋に招き入れ、サナエが早速だけど何か弾いて欲しいと言った。

 メイは『ヴァルトシュタイン』の一楽章を高速で弾いた。ツヨシが現代風の解釈で素晴らしいと言った。母親は技術もしっかりしていて素晴らしいと褒めた。
 サトシはほっとした。メイは課題曲の話を聞いて、音大の受験みたいだねと言いながらも、何曲か見繕って練習したのだ。

 メイはもう一曲『マゼッパ』を弾いた。サナエは驚いた顔をして、なんで音大に進まなかったの勿体無いと言った。メイは嬉しそうな顔をしてありがとうございますと言った。

 ツヨシがサトシも何か弾いたらと言うので母親の好きなシューマンを弾いた。『子供の情景一番』と『幻想小曲集二番』を続けて高速で弾いた。サナエは早ければ良いってもんじゃないわよと言った。サトシは、現代風の解釈って言ってよ、と返した。ピアノ教室の部屋に笑い声が広がった。その後も、メイとサトシは何曲が弾いた。

 メイは、ゴイェスカス組曲から『愛の言葉』を弾いた。いつぞや、小さな駅の近くのストリートピアノで弾いた曲だ。やはり勝負曲だった。メイは、「告白の気持ちを込めて弾いたのに、サトシから闘牛士の歌で返された」と言った。サナエがそれはひどいわねと言った。ツヨシが、サトシはお詫びの気持ちを込めて何か弾くべきだと言った。サトシはシューマンの『トロイメライ』を弾いた。どういう意味? サナエとメイが聞いた。

「セロ弾きのゴーシュだよ。僕が告白しようとすると、メイはいつもその前にチェシャ猫のように消えてしまったからね。だからマッチに火を灯したんだ」

 メイはぺろっと舌を出して言った。
「印度の虎狩り弾くど」

 ツヨシが笑いながら、二人ともここで惚気(のろけ)るんじゃないと言った。

 サナエは満足そうだった。ピアノの上手い人で良かった。サトシも腕前は落ちていない。それにピアノで会話してたなんて素敵じゃない。ピアノが母親の判断基準の全てなのだ。試験はまだ続いた。いつも二人で連弾してるんでしょ。連弾も聴きたいわ。

 サトシとメイは折角グランドピアノが二台ある環境なのだからと、ラフマニノフの二台のピアノのための組曲第一番から『バルカローレ』を弾いた。ツヨシが、何と羨ましい、難しい曲なのに息もぴったりじゃないかと言った。サトシは、いや、いつもは絶対合わせてやるもんかと互いに煽り合ってるよ、それで段々早くなって最後は高速バトル、と言った。サナエはゲームじゃないんだからと言ったが、仲が良いのはよく分かったわと続けた。何か考えているようだった。

「今度のうちの発表会で弾いてくれないかしら。発表会で連弾したいという生徒さん多いから良い目標にして貰えるわ」

 早速、七月に予定されている次の発表会プログラムの検討が、母親とメイの間で進んでいった。サトシはその会話には加わらず、二人の会話を眺めていた。

 サナエのピアノ教室は、自分の名前を冠したサロン・ド・サナエ。今はまだ二十人くらい生徒がいるが、少子化の影響で生徒数は年々減っている。半分以上が就学前か小学生だ。中高大学生は五人くらいで、音楽ではなく学校の先生を目指している人が殆ど。かつてのサトシがそうだったように、音楽の道を志望する人は、音楽大学の教授の教室を紹介し、こちらの教室では発表会だけ参加してもらっている。社会人はまだ少ないが、最近は定年後の趣味にと始める人が増えてきた。ただ、年配の人に教えるのは難しいし、すぐに辞めてしまうと母親がこぼしていた。メイだったら上手いだろうな、オヤジ転がし……

 連弾プログラムが決まったようだ。

 幼児小学生の部ではねずみの国メドレーの連弾を、親子連弾のイメージを持ってもらえるようなアレンジで。この年代は本人よりも親にアピールするのが有効だ。親子で弾きたくなる曲といえは確かにこれだろう。
 中高大学生の部の最後に二台のピアノ演奏。折角会場にピアノ二台用意するのだから一曲では勿体無いと、バルカローレと組曲二番のヴァルスの、二曲になった。この年代の人達は、カッコ良さが大事。少しだけならコミカルに演っても良いし、ラブラブ感も出してね、と注文がついた。
 社会人シニアの部はジャズのメドレー連弾。生徒さん達に、こういう風に弾けるようになったら楽しいだろうな、と思ってもらえる演奏で、流行り物入れて即興っぽく弾いてね、と注文が付いた。
 連弾は演奏パートナーがいないと弾けないが、逆にパートナーが決まれば教室も辞めにくくなる。サナエは、連弾のレッスンを教室の目玉にしようと考えていた。恐らくメイとサトシが演奏パートナーを務めるイメージなのだろう。

 協奏曲とツーハンド連弾は、発表会ではお披露目しないことになった。

「今年も発表会を中止にした教室が多いから、他の教室の生徒さんで、うちの発表会で弾いて貰う人もいるからね。プログラム結構いっぱいなの。それにね」

 発表会を開くと、付き合いのある他の教室からお花が贈られてくるし、そこの先生が観に来ることもある。新しい指導方法や指導曲を取り入れる場合は、発表会でそれをお披露目することもある。発表会で伸びるタイプの生徒には他の教室の発表会にも参加してもらうし、逆に他の教室の先生から参加させてと依頼されることもある。発表会は、生徒にとってはお披露目の場だが、先生にとっては教室内の交流だけでなく、広告・宣伝の場、他の教室との交流と情報交換の場でもある。発表会は一大イベントなのだ。

「まあ、ライバル同士でもあるから、手の内は全部出さなくても良いでしょ」


「じゃあちょっと弾いてみてくれない」
 サナエは言った。メイもすっかり乗り気になっていた。本当にピアノが好きなのだ。
「じゃあ私バイシクル全開で行くから、サトシは伴奏ね」
椅子に座るや否や、レリゴーを弾き始めた。
「えっ」
 サトシは慌ててメイの隣に座り、低音部を弾き始めた。どこかで見た光景だ。
「この後いつか王子様、所々にねずみの行進曲と電飾パレード押し込むからね」
「はいはい了解」
「これなら即興連弾でも大丈夫そうね。当日会場でリクエストもらう形にしようかしら」

 どこの教室も生徒の獲得には苦労している。それだけに話題作りは重要だ。良いアイディアと助っ人を得たと、サナエは笑みを浮かべた。


 発表会の話もまとまり、四人で食卓を囲んだ。

 サトシの家は、料理は女の役割という旧い考えは全くなく、手の空いている方が作るというのが普通だった。サナエはピアノ教室で忙しいことが多いし、ツヨシは単身赴任が多かったため自分で料理を作れるようになっていた。凝り性のため、時間もかかり費用対効果(コスパ)も悪かったが、それはご愛嬌だ。サトシも簡単なものは自分で作っていた。

 この日は、三人が連弾の話をしている間に、ツヨシが和風のローストチキンを焼いた。出汁醤油と味醂で照りを出し、ネギを散らして柚子ポン酢と七味山椒、お好みで味噌を付けるというシンプルなものだが、酒の肴にはちょうど良い。サナエが和え物と煮物と味噌汁を作った。ご飯と刺身の盛り付けがサトシの担当だった。メイはサトシを手伝った。ツヨシがお気に入りの赤ワイン、ベリンジャーのジンファンデルを出してきた。

 メイは困ったという顔をしていた。これまで料理を作ったことが殆どないという。

「香港ではどうしてたの?」
と、サトシが聞いた。
「家の近くの屋台で毎晩食べてた。一人で食べることもあったし、母と一緒に食べることもあった」

 メイは、両親が共働きで、帰りも遅かったので、晩ご飯は近所の屋台で食べていた。元気の良いおばさんが一人で切り盛りしている野菜の沢山入ったスープとお粥の美味しいお店だった。近所にメイのような子が何人かいて、みんなでそのおばさんの屋台に集まって食べた。屋台のおばさんはお母さんのような存在だった。屋台のスープとご飯だけじゃ栄養が偏るからと、今日はあそこの揚げ物、今日は隣の炒め物と、近所の屋台から色々なものを取ってくれてた。みんなのお父さんお母さんも、近くの屋台でお酒を飲みながら食べていた。食べ終わったら家族揃って家に帰っていった。

「そうだね、シンガポールに赴任していた頃は、毎日そんな感じだった。台湾、ベトナムもそうだね。屋台が一家の食卓なんだよね」
と、ツヨシがフォローした。
「合理的で良い仕組みだね。日本もそういうの増えれば良いのに」
と、サトシが言った。
「サトシが作れば良いんじゃない。今はそういう時代よ」
と、サナエが言った。
「カレーとハンバーグとパスタばっかりになっちゃうよ」
と、サトシが言った。メイが、それ位なら作れると言った。サナエは、それで良いのよ、調理器具だって進歩しているし、とメイを気遣った。


 食事をしながら、サナエは、ツヨシが大手メーカーの執行役員だといつもの自慢話を始めた。ツヨシはそれを遮るように、
「いやいや、僕はもう失効役員だからね」
と言った。
 それを聞いたメイは、
「駄洒落はpunですが、オヤジギャグはプンプンって怒ることにしています」
と言った。
 じゃあ僕のはどっちだいと聞かれたメイは、
「お父さんのはpunです」
と澄まして言った。サトシが、
「いつも何言っても激おこプンプン丸って言ってる癖に」
と横槍を入れた。メイは、
「いつも駄洒落ばっかり言っている社長さんがいて、その人に駄長って言ったら、押すとリッチになれるぞ、と返された時は力が抜けた。その後、この駄長!ってプンプン怒り続けた。それに比べると遥かに上品」
と言った。
 ツヨシは、そのネタ貰った、会社で使わせてもらうよと言った。隣でサナエがかぶりを振った。今は部下に駄洒落言ってもハラスメントになるのよ。

 ツヨシはメイに、一体どこで駄洒落を覚えたのかと尋ねた。
 メイは小さな貿易会社で三年ほど通訳と翻訳のアルバイトをしていた、職場の人達が駄洒落ばかり言って通訳するのに苦労した、その時の経験からいくつか日本語の駄洒落に関する論文を書いたと答えた。

 ツヨシは急に真面目な顔になってサトシの方を向き、これが社会勉強なんだよ。お前は今までアルバイトすらしていなかったのだから早く社会に出て、こういう学びも経験しなさい、と言った。サトシの就職活動は進んでいるのかと聞かれたので、オンライン面談は苦手で難航していると答えた。

 メイは香港の頃の話をした。メイの父は若い頃日本の大学に留学していた。よく父から日本の話を聞かされた。中等部の頃、毎日のように同級生の日本人の男の子の家に遊びに行った。日本のアニメと漫画を読んで、PS3とVii Pitで遊んだ。その家のお父さんとお母さんにも可愛がって貰った。
 日本の大学に合格した時、メイの父はとても喜び、入学式も一緒に出席してくれた。父が入学式は袴を着て出席するものだと言うから、その通りにしたら、周りに袴姿の人が誰もいなくて、恥ずかしかった。
 今じゃ卒業式でも着る人少なくなったからね、でもメイは着物も似合うと思うわとサナエが言った。

 サナエは早速メイに教室の手伝いを頼んだ。
「発表会に合わせて、早速だけど教室で連弾のレッスンの手伝いしてもらえると助かるわ、それにシニアの生徒さんも何人か」

 メイはサナエからピアノ指導者の資格検定を勧められた。資格がなくても教えられるけれど、あったほうが何かと良いからね。メイはそうですねと答え、サトシの方を向いて言った。

「サトシも一緒に受けようよ、連弾教えるんだし」

 両親はその話に飛びついた。それは良い、折角ここまでピアノをやってきたのに、その証が何も残らないのは勿体無い。資格を持っているだけでも良いから、この機会に取りなさい。
 サトシは、今は卒論と就活で忙しいからと言ったが、時期はともかく受けるべきだと押し切られ、結局二人で受験することを約束させられた。今度は、昔やったサマースクールの時のようなことはできない。サトシだけ落ちたら家の中での立場はない。

「最初はハヤマ音楽スクールのグレード検定かしら」
 サナエが嬉しそうに言った。

 サトシは仕掛け罠にかかったと不満そうな顔をメイに向けたが、
「こんなにご両親に大事に育ててもらったんだから、親孝行しなよ、親孝行」
と、とどめを刺された。両親を味方につけたメイは勝ち誇った顔をサトシに向けた。
 策士め〜 サトシが呟いた。

 こうして、メイとサトシは、月に二回ほど、ピアノ教室の手伝いと一家団欒の時間を持つ様になった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み