第21話 サトシは『そうだ。日本、行こう』を弾いた

文字数 2,687文字

 サトシは黒いスーツの後について廊下に出た。エレベーターで地上階まで降りる間に、黒いスーツの男は、自分の連絡先とホテルの名前を告げた。ホテルの予約と支払いは完了している、君の名前を告げればチェックインできる、自分の連絡先はこれだ、と名刺を差し出した。ホテルまで車で行くか、と聞かれたが、いや大丈夫です。折角なので自力で行ってみますと答えた。黒いスーツの男とは地上階エレベーターホールで別れ、来訪者用のIDカードを受付に返した。受付嬢も正面玄関のところにいた警備員も別の人に交代していた。

 サトシは建物を出て、中環のフェリーターミナルまで歩いた。太陽は既にヴィクトリアピークの向こう側に隠れんとし、あたりに夕闇が迫り始めていた。目の前の大きな観覧車が眩しく輝いていた。黒いスーツの男から渡された名刺には走り書きでホテルの名前が書かれていた。
 スターフェリーに乗った。中環から対岸の尖沙咀まで十分とかからない。以前なら観光客で賑わっていたのだろうが、今は香港人ばかりで閑散としている。サトシは水面を見ながらメイのことを思った。メイが横にいたらきっとサトシを海に突き落とそうと悪戯するだろう。尖沙咀のフェリーターミナルからホテルまで大通りを歩いた。今朝、泊まっていたゲストハウスから歩いてきた時も通った道だ。

 ホテルの前に着いて仰天した。香港随一の格式を誇る重厚なホテルだった。車寄せのところで、どちらへおいででしょうか、と制服を着た係員が慇懃な笑みを浮かべて寄ってきた。宿泊で予約があると思います、と言ったら、別の係員が飛んできた。お名前お伺いして宜しいでしょうか。サトシ・ヨシダです。お荷物はどちらで。いやこのバックパックだけです。お持ちいたしましょうか。いえ、これだけなので大丈夫です。それではお部屋にご案内します。お部屋? サトシはこういう所に慣れていなかった。恐る恐るスタッフの後に着いて行った。フロントらしきところに寄ることもなく、上層階の部屋に案内された。先ほど訪れた中環の高層ビルがよく見える部屋で、サトシは係員の言われるがままにパスポートを差し出し、宿泊者登録シートの記入をした。ご滞在中のレストラン利用など全て含まれておりますので、どうかごゆっくりお寛ぎ下さいと言われ、サトシは恐縮した。

 サトシは、この重厚な雰囲気に対して自分はあまりにも不似合いだと思った。ホテルのレストランに行くのも気が重い。少し近所を散歩して、ハンバーガーショップでも探してみよう。サトシは部屋の鍵を持った。鍵はカードキーではなく、冒険物ゲームに出て来るアイテムのように大きなものだった。鍵を持ったままホテルの外に出ても良いのか分からない。まるでログインボーナスで使い方の分からないアイテムを引いた気分だ。鍵は一階のフロントで預かってくれた。

 正面玄関近くのロビーラウンジでピアノ演奏が流れていた。メイもこんな場所で弾いていたのだろうか。無性にピアノが弾きたくなってきた。ピアニストが演奏を終えて撤収しようとしたので、サトシは、弾いてもいいかと聞いた。そのピアニストは自分じゃ分からない、ロビーマネージャに聞いてくれという。何事かとロビーマネージャが寄ってきた。サトシは、自分はこのホテルに泊まっているが、どうしてもピアノを弾きたくなった。ここの雰囲気を壊すような演奏はしないから、どうか一曲弾かせて欲しいと言った。どのような曲をお弾きで。ジャズのスタンダードです。それは素晴らしい、どうぞご演奏ください。サトシはピアノの椅子に座った。先ほどまで弾いていたピアニストが一体何を弾くのかとこちらを見ている。

 夕方の喧騒溢れるロビーラウンジに、サトシの弾くピアノの音色が優しく静かに響いた。アフタヌーンティを楽しんでいた日本人のご婦人方が、京都行こう? ここは香港なのにねと言っているのが聞こえた。二分程度で弾き終えた。ピアノ近くの席に座っていた一人の老婦人が癖の強いクイーンズイングリッシュで聞いてきた。どこかで聞いた曲だけど何ていう曲なの? サトシは『そうだ。日本、行こう』ですと答えた。それを聞いていた日本人のご婦人方が声を立てて笑った。

 サトシはフロアマネージャに礼を言い、ホテルの外に出て海の方に向かって歩いた。

 海沿いのプロムナードデッキは夕方のカップルの散歩コースのようだ。一人で歩いているのはサトシくらいだった。ファストフード店や屋台のようなお店はない。サトシは、昨日泊まったゲストハウスの近くなら何かあるだろうと思い、泊まっているホテルを通り過ぎてそちらの方に向かった。ホテルからワンブロックくらいのところに有名なハンバーガーチェーンの店があった。サトシはホッとして、たらふく食べた。持ち帰りも買ってホテルの部屋に戻った。

 次の日、サトシは旺角(モンコック)を彷徨い歩いた。そういえば、メイが高校の時によく遊びに行ったと言っていた、女人街を覗いてみよう。女人街って何売ってるのと聞いたら、若い女。サトシ泣いて喜ぶと思うよ、と言っていたのだが、真相を確かめねばなるまい。メイが売られていたら即お買い上げだ。などど詰まらないことを考えながらその場所に向かった。
 真相はメイの言っていたことの真逆だった。若い女の子が好きそうなカジュアルファッション、アクセサリー、小物雑貨の露店が並んでいた。サトシは小一時間ほど周囲を散策した。メイと偶然出会えるような気配はまるでなかった。サトシは手頃なフードコートで食事を取った。そして、ホテルまで歩いて帰った。途中の公園で、老人達が太極拳をやっていた。時間が止まったかのようなその動きに興味を惹かれ、サトシは暫く眺めていた。

 ホテル滞在三日目の午後、部屋の電話が鳴った。フロントからだった。ご伝言をお預かりしております。これからお部屋にお持ちいたします。サトシは毎日部屋に届けられるフルーツの皮を剥きながら、メイの収監先が分かり、面会できることを期待した。ほどなくしてコンシェルジュが部屋に手紙を届けてくれた。厚手の紙に書かれたその内容は酸味の効いたものだった。

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 君の恋人は現在香港の大欖女子懲教所に収監されている。面会は不可。現在の香港は政治活動に対して神経質(ナーヴァス)だ。君もこれ以上香港にいて彼女の軌跡を探索するのは止めた方が良い。何事もなければ彼女は七ヶ月後に釈放される。待つことも必要だ。チェックアウトの時に君の日本の連絡先をホテルに託して欲しい。彼女が釈放される情報を得たら連絡する。
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 次の日、サトシはホテルをチェックアウトし、日本に帰国した。
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