第8話 メイが感染して詰みそうになったので二人は一緒に暮らすことにした

文字数 3,875文字

 年が明けて新型感染症の蔓延は危機的状況になった。殆どの試験がレポート提出かオンラインになった。サトシは殆ど自室、時々大学、ストリートピアノなしの生活を送っていた。試験期間ということもあり、メイとは暫く会っていなかった。ある日メイからメッセージが届いた。

(メイ) 感染した
(サトシ)大丈夫? お見舞い行くよ
(メイ) ダメだよ。濃厚接触者になるよ
(サトシ)濃厚接触ならいつものこと
(メイ) この変態狼野郎!
(サトシ)そうじゃなくて、熱は? 苦しくない? ちゃんと食べてる?
(メイ) 熱下がったら、お腹すいてきた
(サトシ)ほらやっぱり。病院行った?
(メイ) うん、病院も隔離施設も一杯だから自宅待機だって
(サトシ)食べるもの買って持っていくよ
(メイ) 嬉しい、えーとあれとこれと--
(サトシ)なんだか元気そうだね。今から行くから
(メイ) 待ってる!

 メイの部屋の扉のところで、サトシはコンビニの袋を手渡した。何か喋りたかったが二人とも我慢した。それから何回か、サトシはメイの部屋に食事と飲み物を届けに行った。幸いメイは重症化することもなく、次の検査で陰性になり復活した。

 後期試験が終わった。サトシは卒業論文の計画書を仕上げようと大学に来ていた。教授から、大学院進学と就職の両方活動するのであれば、論文は早めに進める必要があると言われていた。午前中、大学院の先輩に計画書のレビューをしてもらった。いくつか指摘事項はあったが、概ね良好だった。お昼を食べた後、研究室に戻ってプログラミングの続きをやるか、それとも部屋に戻って計画書の修正をやろうかと考えながら、閑散としたキャンパスを歩いていた。

 向こうから誰かが手を振っている。メイだった。遠くだった上にマスクをしているのですぐに気付かなかった。メイは勢いよく走って来て、
「感染者だからシカトしようとしたでしょ」
とサトシに肘鉄をお見舞いしようとした。サトシは、
「ソーシャル・ディスタンシング」
と言ってそれをかわした。メイは、
「ソーシャル・ディス・ダンシング」
と言って、行き場をなくした肘の代わりに踊り出した。

「久しぶり、元気になってホッとしたよ」
「久しぶりなんだから、肘鉄くらい受け止めてよ」
「痛いから嫌だ。どこ行くの」
「学食やってるかなと思って……」

 二人がいつも行く食堂は閉まっていたので、カフェテリアに行った。

 メイの夜の仕事が無くなった。エスコートクラブに感染したと連絡したところ、登録を抹消された。指名客には店から連絡するという。ラウンジのピアノ演奏も向こう半年間の予定が取り消された。
「一度感染者のレッテル貼られると本当に辛い。これでは生活できない。だから食事もなるべく学食に来て食べるの」

 サトシは、公的支援制度や大学の支援制度の活用を提案した。メイが面倒だし一人で申請に行くのは気恥ずかしいというので、二人で学生課に行った。大学の支援制度は留学生向けのものも幾つかあり、公的支援制度で受給資格がありながら未申請のものもあった。これなら暫くはなんとかなりそうだ。

「良かった、聞いてみるもんだね」
「うん、ありがとう。少し元気になってきた」
「そういえば、しばらく連弾してないね」
「そうだ!連弾、しよう」

 大きな駅も、小さな駅の近くも、ストリートピアノは閉鎖されていた。大学の近くにある別のストリートピアノも閉まっていた。今や、街中でお喋りどころか二人で歩くことすら憚られた。出鼻を挫かれた二人は、サトシの部屋に帰って、連弾することにした。ところが、弾く曲が決まらず、結局何も弾かずに黙ってしまった。

「メイ、どうしたの? 最近元気ないけど」
「感染してから一人でいるのが怖くなったの。大人しく段ボール箱に入ってるからサトシの部屋に置いてよ」
「メイ、今日こそちゃんと話そうよ。一緒に住もう」
「うん、もうすぐ部屋の契約更新だから、どうしようかって思ってたの。だけど、サトシの部屋だって親持ちじゃない。ご両親が何て言うか……」
「うん、親に話そうと思ってるんだ。僕もあと一年で卒業だし、その後は自分で家賃払いますって条件なら、大丈夫じゃないかと思うんだ。それに……」
「それに?」
メイが不安そうな表情を浮かべた。
「先のことも見据えて、どうするか決めないといけない時期だからね。僕は就職するよ」

 突然、メイは泣き出した。

 メイはサトシのこの言葉を恐れていた。いつまでも学生同士の甘く楽しい生活が続くとは思っていない。いろんなことがあって行き詰まっていても、この先どうするか決めないといけない。そんなことは分かっている。でも、サトシにはっきり言われると、まだ何も決め切れないでいる自分が突き放され、置いていかれるような気がしたのだ。

「サトシ、ごめんね。私この先どうして良いか分からなくなってきたの」

 サトシは泣きじゃくるメイを抱き寄せた。香港から一人で日本にやって来て、五年かけてなんとか築き上げてきた生活基盤が崩壊しようとしている。父は香港の刑務所に服役している。母は離婚してカナダで別の男と暮らしている。こんなに心細いことはないだろう。
 サトシは自分がメイの支えになれていないと自覚していた。生まれて以来、ずっと親がかりで育てて貰ってきた。日本に来てから自分で道を切り開いてきたメイからすると、頼りない子供に見えるだろう。今、自分が変わらないと、きっと後悔することになる。だから、今、決めるのだ。

「僕の勝手な希望だけど、メイは大学に残って日本語の研究続けてよ。それから、可能だったらの話だけど、母親のピアノ教室手伝ってもらえると嬉しいんだ。まだ母親には話していないけど、喜んでもらえると思う。メイも良いアルバイトになると思うし、ちょうど夜の仕事が途切れたから、今なら変われるチャンスかもしれない。お互いにね」

 メイは涙顔で頷いた。

「それで、メイのお父さんにも挨拶に行かないといけないと思ってるし、メイも僕の両親に会って欲しいんだ。僕が卒業するまでに一緒に香港行こうよ」
「ありがとう。サトシ……」

 メイが落ち着きを取り戻し、いつもの会話に戻った。
「まあ、メイも大人しく段ボール箱に入るって言ってくれたことだし」
「あーっ。それ取り消し、取り消し」
「言質は貰った。二言はないでござる」
「このごじゃる野郎!」
 まさかここで来るとは思わなかった隙だらけのサトシに、効果的な肘鉄が決まった。
「うきっ」

 サトシは悶絶した。



 梅の花が咲き始めた頃。サトシは実家に帰っていた。両親に、メイと同居したいという話をするためだ。
 サトシの部屋から実家までは、歩いても十五分ほどの距離なのだが、しばらく帰っていなかった。サナエから感染症が収まるまで帰ってこないで、ピアノ教室の親御さんで心配している人多いから、と言われていたし、サトシも両親からお叱言を貰う心配をしなくて良いので、これ幸いとばかりに帰っていなかったのだ。

 話すタイミングを慎重に選んだおかげで、大した文句も言われず、引っ越しと二人の同居は認められた。

 ツヨシが条件を出した。
「サトシの卒業後は、自分たちで家賃負担すること。そこまでなら出しても良い」
 サトシは父の提示した条件に同意した。

 サナエはため息をつきながら、
「二人ともちゃんと将来のこと考えてるんでしょうね」
と呟いた。
 サトシは、母親が心配しているのは、サトシとメイの事だけではなく、ピアノ教室の将来のこともあるのだろうと気付いた。

 サトシは、
「こんなこと言うと何だけど、メイは僕よりピアノ上手いんだ。大学で研究を続けるつもりだから、僕よりは時間ができるはず。ピアノ教室の手伝いもお願いできるかもだよ。まあ、お母さんがメイと会ってからの話だけど」
と、答えた。

 ツヨシが割って入った。
「そう言うことなら、良いんじゃないか。お前は会社に入って働く、メイさんは大学院とピアノ教室の手伝いってことなら。言うなれば私とサナエの立ち位置をそのまま継承するということだ」
「うん、そのつもりです。家が決まって落ち着いたら、メイを連れてくるよ」

 ツヨシはいつになく乗り気だ。学生から社会人になるというのは、働くことだけではない。自分だけでなく、家族や伴侶を含めて、この先どうやって生きて行くかを決断することなのだ。もちろんその通りになる確約など出来ないし、そうならなかったと言って責めるべきものでもない。大事なのは決めることなのだ。やっとその気になってくれたか。

 父と子の会話を聞いて、サナエの表情も明るくなった。

「何か弾いてね」
「分かった。まあいつも二人で連弾してるし」
「バッハ、ベートーベン、ショパン、リスト、バルトーク、パデレフスキー……」
「えっ、課題曲?」
「決まってるでしょ。サトシも弾くのよ。連弾曲も忘れずにね」
「そうだな、家賃出すんだしな」
「えーっ。まあいいけど」

 予想されていた展開とはいえ、少々重たい試験になりそうだ。

 この後、親子三人で夕食の時間を持った。サトシの大学生活と就職活動の状況、サナエのピアノ教室の状況、ツヨシの会社の話を互いに喋った。新型感染症によるさまざまな影響が共通の話題だった。

 サトシは、遅い時間になる前に実家から(いとま)した。サトシの部屋でメイが一人待っている。

 帰りしなに、
「もう一緒に住んでるんでしょ。サトシだけ食べさせて返す訳には行かないから」
と言って、サナエがメイの分の夕食を重箱に詰めて持たせてくれた。

 サトシは道すがら、課題曲入りの重たい箱だと思った。何か作戦を考えないとダメだな……
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