第17話 サトシは会社を辞め、香港にメイを探しに行こうと決意した

文字数 2,033文字

 メイが香港で行方不明になった次の年の春。サトシは大学を卒業し、大手メーカーに就職した。研究開発職を希望したがそれは叶わず、誰かが開発したプログラムをテストする職場に配属された。

 配属されて暫くした頃、サトシは本社への転勤を告げられた。

「十月一日付。技術戦略部。業務内容は企画と管理」

 上司から、君は出世コースに乗ったのだと言われた。職場の先輩や同期入社の友人達からご栄転だと羨ましがられた。

 サトシは、大学で学んだことが全くの無駄だったと言わんばかりの処遇に失望していた。仕事への興味を失い、出世にも関心がなかった。自分の能力を活かせるという実感も、喜びも、達成感もなかった。希望の職種でないにも関わらず就職したのは、早くメイを養っていけるようになれと言う父との約束からだった。メイがいなくなった今では虚しい限りだ。毎日会社に通い、なんとなく仕事をして、会社帰りに上司同僚と酒でも飲んで、家に帰って寝る--この先何十年もそうやって暮らして行く事など想像すら出来ない。そう言えば最近ピアノも弾かなくなった。メイの事を思い出したくないからではない。只なんとなく遠ざかっていた。このままでは自分が自分でなくなっていく……

 サトシは優柔不断で意思表示も苦手だった。母親から音大への進学を強く望まれた時も、直接反論することができず、音大のサマースクールでわざと落第するというやり方でしか抵抗できなかった。会社の辞令を拒否するなど、恐れ多くて思いもよらない。嫌々ながらも転勤の準備を始めた。

 転勤まで後二週間となった週末、サトシは部屋の片付けをやっていた。家具と家電は処分した。電子ピアノは母親のピアノ教室で使ってもらう事にした。サトシの持ち物は転勤先に持っていく物、実家の倉庫に入れておく物の仕分けは終わっており、梱包だけを残していた。メイの持ち物が結構残っている。サトシの口から溜息が漏れた。未だメイの持ち物を捨てる勇気も覚悟もなく、整理して実家の倉庫に入れておくことにした。机の引き出しに入っているものと、衣装棚に入っているものを段ボール箱に詰め始めた。

 引き出しの奥にUSBメモリと手紙の入った封筒があった。自分宛ではない手紙を読むのは憚られたが、サトシは封筒から取り出し、それを読んだ。手紙はメイの父からメイに宛てたものだった。サトシは部屋の片付けを忘れて、二度読み返した。それからUSBメモリをPCに繋いだ。パスワードが設定されていた。手紙にはパスワードの事は書かれていなかった。

 サトシは、今すぐパスワードを破ることは出来ないが、USBメモリの内容をそのままノートパソコンに物理コピーすること位は出来た。元のUSBメモリはそのままにして、コピーした方で時間を掛けてパスワードを解析しよう。サトシは、封筒に手紙とUSBメモリを戻し、転勤先に持って行く荷物の中に封筒を納めた。

 既に何度もメイに電話をかけたりメッセージを送ったりしていたが、もう一度試みた。結果は同じだった。電話番号は機械音声で現在使われていないことを告げられるだけ。メッセージは既読にならない。メッセージングアプリもチャットも繋がらない。

 一晩中サトシは考え込んだ。この手紙を持たずに香港に帰ったのか。そそっかしいメイの事だ、きっとこの手紙の事すら忘れているのだ。そのために香港でメイは何か問題に陥ったのだろう。自分はメイが香港に戻った時に何もできなかった。メイが失踪したのは自分にも何か責任がある。せめて今香港に行ってメイを探し、これを届け、日本に一緒に帰るよう説得できないだろうか。もし戻らないと言うなら、それは別れの時だ。サトシは決心した。

 転勤の一週間前、サトシは上司に退職届を提出した。上司は大いに驚き、普段より一オクターブも高くなった声で翻意を促した。が、サトシの決意が覆ることはなかった。

 その夜、サトシは実家を訪れ、両親に会社を辞め香港にメイを探しに行くことを告げた。暫しの沈黙の後、ツヨシが口を開いた。自分で考え、考え抜いて決めたことなら、何も言うことはない。あとは行動あるのみだ。それにお前の人生の持ち時間はまだまだある。仮に後で道を間違ったと気付いたとしても、その気があれば挽回は可能だと言った。
 サナエは、サトシの真意を計りかねた。愛息が突然会社を辞めると言い出すことなど、考えたこともなかった。一度、音楽大学への進学の件で抵抗されたことはあったが、それは遅れてきた反抗期だろうと思っていた。折角社会の敷いた、世間的にも申し分ないレールに乗ったにも拘らず、半年もしない内にそこから脱線するとは、一体どういう心境の変化なのかしら。サナエは心配そうな声で、メイの元気な姿に会えると良いわね、としか言えなかった。
 サトシとメイの荷物は実家のガレージの隣にある倉庫に入れることにして、借りていた部屋の契約は解除した。

 会社を退職した次の週、サトシは秋晴れの青空の下、香港に向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み