第23話 サトシはメイと再会した。メイは……メイのままだった

文字数 4,411文字

 サトシの待機期間が終わり、メイの釈放される日を迎えた。その日は朝から強い雨が降っていた。
 ホテルの部屋で待機終了手続きを終えたサトシは、居心地が良く広々とした部屋で窮屈な思いをすることはなかったものの、少し部屋の外に出て歩きたいと思い、一階のロビーラウンジで朝食を摂った。

 食後に香りの良いコーヒーをお代わりして、心に少し余裕の出来たサトシは、このホテルに泊まって以来初めて、建物の雰囲気や調度品、周囲の光景や、ホテルのスタッフの動きに意識を向けた。これまで映画やテレビのドラマでしか見たことのない景色だが、せっかくなのだから、色々見てみよう。
 午後の外出のための車の手配は既に終えていた。出発の時間まで、特にやることもない。サトシはホテル内のショッピング・アーケードを散策した。午前中だったこともあり、ほとんどの店舗は営業していなかったが、ショーウィンドウは灯りがついていた。サトシも名前くらいは聞いたことのある高級ブランドのブティックが並んでいた。サトシは、やはり場違いだったかと独り苦笑いした。メイなんか連れてきたら大変なことになるだろう。此処は、メイにとっては花の蜜かも知れないが、サトシにとっては危険な誘蛾灯だ。

 サトシは地下のショッピングアーケード街で、高級なコーヒーと高級なパン--初めて見るものだったので、なんと表現して良いかわからなかった--を売っているお店を見つけた。ちゃんとした昼食は、迎えに行った後、メイと一緒に食べるのが良いだろうと思い、軽いお昼ご飯にと、コーヒーと、美味しそうな『高級な菓子パンのようなもの』--店の人に教わってそれをペイストリーと呼ぶことを初めて知った--を買って部屋に戻った。

 お昼過ぎ、サトシはホテルの用意した、その行き先には場違い極まりないロールスロイスの後部座席に座ってメイを迎えに行った。雨はまだ降っていた。

 車は自動車専用道路を三十分ほど走り市街地を抜け、更に二十分ほど海沿いの道を走った。自動車専用道路を出た車は、片側一車線の狭い道に入り山の中に向かった。道はやがて一車線になり、さらに狭くなった。雑然として小さな家の立ち並ぶ集落の間を通り過ぎた。道端で遊んでいた子供たちが、珍しそうな顔をして車の後を走って追いかけてきた。集落が途切れたところに検問所があった。ゲートは閉じられており、数名の警備員が警戒についていた。ここからは懲教所の敷地内だという。

 一人の係官がやってきて、サトシに車から降りるように言った。別の警備員が爆発物探知機を持って、車の下を調べ始めた。運転手も車から降りてトランクを開け、警備員に確認してもらっている。面会の場合は、ここで車を降り、専用のカートに乗って面会場所に向かうが、釈放の時に限り、許可を得た車であれば釈放場所の近くまで行くことができるのだという。どうやらホテルが気を利かせて、事前に申請していたようだ。

 サトシは、警備員に促されて検問所の小さな建物に入った。行き先と目的、釈放者の名前、訪問者の名前と身分証明、を求められた。ボディチェックも行われた。サトシは自分のパスポートを提示してメイの名前を告げた。

 ロールスロイスのフロントガラスの内側に、大きな通行許可証が掲示された。運転手とサトシは車に戻った。車は検問所のゲートを通り抜けて、背の高い鉄条網と壁に挟まれた細い道を進んだ。運転手は、自分は長いこと運転手の仕事をやっているが、懲教所に入るのは初めてで、こんなに物々しい検査を受けるとは思わなかったと言った。我々は収監ではなく送迎でよかったですね、とサトシが言った。運転手はその言葉に笑い、本当にそうです。あなたのご友人も釈放を迎えられて良かったですね、と言った。

 車は女子懲教所の建物の前に辿り着いた。近くの監視塔から建物の壁際に停車するなと拡声器で告げられたので、運転手は四苦八苦しながら車をUターンさせ、道路を隔てて反対側の駐車スペースに停め直した。

 車の中で暫く待った。やがて女子懲教所の鋼鉄製の小さな扉が開いて、中からTシャツとジーンズ姿の女が出てきた。そして自分には迎えがない事を悟っているかのように、周囲を見回すこともなく検問所までの道を歩き始めた。傘は持っていなかった。雨が容赦なく女の身体に降り注いでいた。

 サトシは車を降りて駆け出した。

「メイ」

 女は振り返った。少しやつれたメイの顔があった。そして驚いた表情でサトシを見つめた。メイ、迎えに来たよ。メイはサトシの胸に飛び込み、サトシはメイを抱きしめた。雨粒が二人の再会を祝福した。

 サトシの後ろから運転手が傘を持って来て、二人の上に差し掛けた。そして参りましょうと言った。メイはその車に気付き、驚いた。一体どう言う事? とりあえず車に乗ってホテルに戻ろう。

 二人は車に乗って、運転手が用意したタオルで髪と体を拭った。帰りの検問所で、もう一度検査が行われ、許可証とメイの識別票は回収された。

 メイは質問したい事がたくさんあったが、何から聞いて良いか分からなかった。

「サトシ、どうして……」

 車は海沿いの道を走っていた。
 サトシはメイの肩を抱き寄せた。

「奇襲したかったんだ。いつもメイに奇襲されっぱなしだったからね」

雨粒と涙でくしゃくしゃになった顔が笑った。サトシが話し始めた。メイが置き忘れていった手紙のこと、そしてホン氏との邂逅。

「だから私が懲教所にいることも、いつ釈放されるかも分かったんだ」
「うん、ホテルはホンさんが取ってくれた」
「へー、一度泊まってみたかったんだよね。香港で一番のホテルだし」

 つい先程まで囚人だったメイは瞬く間に元のメイに戻った。サトシはこの際言っておきたいことがあった。

「それでさ、香港に着いて以来どうして連絡くれなかったんだよ。着いてすぐに逮捕された訳でもないし」
「忙しかったし、毎日泣いてたし、巻き込みたくなかったし、連絡するの忘れてた」
「もーっ、メイ。お葬式に出るのは出入国の理由になるから、来ようと思ってたんだよ。ワクチンパスポートも在日本香港事務所に確認して準備してたんだから。それに、メイの香港での連絡先も何も全く分からなかったから、行方不明になっても探そうにも探す手掛かりすらなかったんだから」
「サトシ、牛さんと羊さん同時にやるのは禁止」
サトシは、お構いなしに続けた。
「で、感染症の待機期間とか渡航制限が緩和されて、やっと行き来できるようになったから、二ヶ月前に一度来たんだ。それでホンさんにたどり着いた」
「ふーん、サトシは子供だと思ってたけど結構やるね。嬉しい、ありがとう」

 二人をのせたロールスロイスはホテルの車寄せに着いた。スタッフが車に駆け寄り、左右の後部ドアを開けた。サトシは右側、メイは左側から降りた。ベルキャプテンは場違いな格好の二人に驚く素振りも見せずに上品な笑顔を浮かべ、お帰りなさいと言った。
 ベルキャプテンは二人の後ろ姿を見送りながら、どこかの御嬢様と御坊ちゃまが愛の逃避行ごっこでもやっていたのだろうと思ったが、運転手が懲教所からの送迎は初めてだと呟いたのを聞いて、ごっこではなく本物だったかと呻くように言った。

 二人はホテル正面玄関から一階ロビーを通ってエレベーターホールに向かい、部屋に上がった。サトシは、とりあえず着替えよう、着替え持って来たと言った。メイはサトシにしては気が利いていると言った。シャワーを浴びて、メイはサトシの持って来た衣装から適当なものを見繕った。衣装はバトラーによってバスルームの隣の広いクローゼットに綺麗に掛けられていた。
 突然メイが何これと指差した。サトシは、母親がどうしても持って行けと言うのでね、と言った。サナエも気が利いていた。それは真っ白なロングドレスだった。折角だからと言ってメイはそれを着た。サトシもちゃんとした服着てよと言って、グレーのタキシードを指差した。ひょっとしてこれもお母さん? そう。昔の演奏会用衣装だけどね。うふふ、準備良すぎ。

 それから二人はリビングのソファに座って、この一年間の事をお互いに喋った。

「……メイ、大変だったね。隙を突いて調書にサインさせるなんて、それ冤罪だよ、絶対」
「サトシも大冒険だったね」
「ちょっと、簡単に言わないでよ。本当に心配したんだから」
「嬉しい。そういえば、サトシはちゃんと就職した?」
「した。でも、転職した」
「早! 何で?」
「入って半年もしない内に転勤言い渡されたんだ。それで大学の先輩の会社に転職した」
「へー、どんな会社?」
「ロボットと人工知能。それに音声認識」
「よかったね、それサトシのやりたがってたことでしょ」
「そうなんだよ。大学の研究室にも戻れたしね」
「どう言うこと?」
「共同研究って形になったんだ」
「サトシ順風満帆じゃない」
「こうやって喋るとそうなんだけど、それなりに大変だった。メイもそうだったでしょ」
「まあね」

 メイがお腹空いたと言ったので、アフタヌーンティの三段トレーと紅茶のセットを部屋に届けて貰った。こんなに美味しいもの久し振りだと言って凄い勢いで食べた。食べこぼしが白いドレスにこぼれ落ちた。サトシは、まるで幼児のようだと笑った。久しぶりにメイの肘鉄が飛んできた。

 メイは、部屋にピアノがあることに気付いた。

「すごいね。至れり尽くせりって感じ」

 雨が上がり、部屋の窓から二重になった大きな虹が見えた。二人は窓辺に歩み寄り、七色の帯が鮮明な柔らかくも美しい光の輪と、ところどころ雲の間から差し込む午後の日差しを受けて色鮮やかに輝く、雨で洗い流されたばかりの香港島の高層ビル群を見つめた。絵画に詳しかったら、まるでターナーだねと会話しただろうが、二人の特技は別のところにあった。外側の虹の輪が姿を消したところで、二人は顔を見合わせた。

「やっぱこれか〜」
「出たんじゃしょうがないよね」

 二人は部屋に置かれたピアノに向かった。そして『虹の彼方に』を連弾した。

「メイ、ピアノの腕前そんなに落ちてないね。むしろ上手くなった気がする」
「うん。懲教所に入ってすぐの頃、毎日エアーピアノ弾いてたら、刑務官がピアノ用意するって言ってくれたの。だから毎日弾いてた。あと、こんな本読みたいって言ったら、本も届けてくれた。だから、研究も続けてたんだよ」
「へー、それもある意味ホテル並みだね。よく囚人同志で喧嘩があったり、いじめられたりするって話聞くけど、そういうのなかった?」
「うん、私のいたブロックはそういうのなかった。まあ、他の人と顔合わせるのは食事とお風呂の時くらいだけどね」
「よかった。心配してたんだよ。メイは天真爛漫、猪突猛進だから他の人と上手くやっていけるかって」
「そんなことないよ、メイは良い子だよ」
「あ、そうそう、そういえば……」

 サトシは大事な事を忘れない内にと、話を切り出した。
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