第22話 一度帰国したサトシは二ヶ月後に再び香港へ向かった

文字数 2,649文字

 サトシは日本に戻った。メイが逮捕され、刑務所に収監されていることには驚いたが、所在が明らかになったことで少しは気が楽になった。メイの後を追って香港に行くべきかと一年近く迷っていた自分が恥ずかしく、もっと早く行動すれば良かったと思った。
 サトシは両親に香港での顛末を話した。ツヨシはこの先どうするつもりなのかと聞いた。サトシは答えた。釈放まで待ちメイと再会する。そして日本に一緒に帰るように説得する。駄目だったらメイのことは諦める。大学の研究室でやって来たことが活かせる就職先を探す。ツヨシはそれで良いと言った。サナエはメイが父を亡くした上に何かのトラブルに巻き込まれた事を心配していた。メイが釈放されたら絶対に日本に連れて来なさい。

 サトシは、大学の研究室の先輩が起業したベンチャー企業に面接に行った。ロボティクスと仮想現実、それに音声認識の研究開発をしている会社だ。起業して三年、社員数も十五名と少ないが、サトシは大学の研究室に戻ったような気がした。面接に来たサトシに先輩でもある社長は驚いた。てっきり大手メーカーで一生を過ごすのかと思っていた、給料も良いし安定しているのに、どうしたのだと言った。サトシは、会社に入って半年もしないうちに、転勤を言い渡された。しかも本社で管理の仕事だという。このままじゃ駄目だと思った。組織の論理で個人の適性も考えずに配属や転勤をさせるような会社に将来性は感じられなかったと言った。先輩はそれも大事な勉強だと言って笑った。ここは研究室よりきつい、それに大手メーカーより給料も安いぞと言った。サトシは頷き、よろしくお願いしますと言った。
 サトシは、相手が笑いながら喋っているとか怒った声で喋っているということを認識する、発話者感情認識エンジンの開発を任された。これはサトシが研究を続けて来たテーマに隣接しており、そのことを申告した。大学の研究室との話し合いの結果、共同研究の形をとる事になり、サトシは大学にも籍を持つことになった。
 ピアノも再び弾くようになった。ただし、ストリートピアノは、メイと再開するまで弾かないと決めた。またナンパ野郎と詰られるのは嫌だ、今度こそ攻守逆転させるのだと誓った。

 サトシが日本に帰国した一ヶ月後のある日、サトシはテレビでニュースを観ていた。--中国共産党中央大会第七回全体会議が終わり中央委員の大幅な入れ替えが決まった。これにより宗主席の党内権力基盤は確固たるものになった。同時に数万人規模の恩赦と名誉回復が発表された--というものだった。最後のところに引っかかった。サトシはその日のうちに在日本香港事務所に問い合わせた。メイが恩赦の対象であることは確認できた。が、釈放日などの詳細を教えることはできない、とのことだった。次の日、ホン氏からメールが届いた。

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 君の恋人は恩赦により予定より早く本年十二月十日に釈放される。彼女と君のためにホテルを手配する。来港日と便名を連絡されたし。
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 釈放予定日の三日前、サトシは香港に向かった。未だ香港も日本も陰性証明、到着時の検査と三日間の待機が必要だった。ホン氏が手配してくれたホテルは前回と同じで、待機指定ホテルでもあった。要するに三日間はホテルの部屋から出なければ良いらしい。
 入国審査を過ぎたところでサトシの名前の書かれたボードを持ったホテルの制服を着た係員が待っていた。今回はバックパックひとつではなく、大きなスーツケースを二つと機内持ち込みのビジネスバッグで来ていた。釈放時は逮捕時に身に付けていたものしかなく着替え等を用意すると良いとホン氏がアドバイスしてくれたので、サナエの助けも借りてスーツケースにメイが残していった服やら何やらを詰め込んで持って来たのだ。係員は預託手荷物受け取り場でサトシのスーツケース二個をピックアップし、それを持ってサトシを車まで案内した。これまで見たこともない重厚な車--ロールスロイス・ファントム--が待っていた。

 ホテルに着いた。待機期間中のため裏口に案内された。入口のところで防護服を着たスタッフから、待機期間中のルールなどについて説明を受け、渡された案内状に従って、業務用のようなエレベータを使って一人で部屋に向かった。
 待機期間中は部屋から出てはいけない。食事はホテルのインルーム・ダイニング・メニューとなるが、決まった時間にしか届けられない。毎日一回、医療スタッフが部屋を訪れ、検温、検査、問診を行う。その際に、バトラーが部屋の簡易清掃と消毒を行う。預かったスーツケースは明日の清掃・消毒時に、バトラーが荷解きをする。待機期間終了後に改めて部屋付きのコンシェルジュが部屋まで挨拶に伺う、とのことだった。
 二度目の滞在で今度は驚かないぞと思っていたが、通された部屋はベッドルームとリビングルームが別にあり、リビングからは正面に香港島の景色が見え、バスルームは二面ガラス張りでバスタブから九龍側の夜景が見えるというものだった。リビングには小型のピアノも置かれていた。
 部屋の至るところにメッセージカードが置かれていた。お客様のために部屋にピアノをご用意いたしましたと言うメッセージがピアノの上に置かれていた。そこには前回滞在時のサトシの演奏が素晴らしかったとも書かれていた。またしてもサトシは仰天した。

 部屋にホン氏からの手紙が届いていた。

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 親愛なるサトシ

 二十五年前、私は君の恋人の父を懲教所まで迎えに行った。それまでの数年間、私と彼は共通の政治的情熱を持って活動した。彼は愚直で私は臆病だった。彼は逮捕されたが私は免れた。私は釈放された彼を迎えに行くことしかできなかった。二度目の時、私は彼を迎えに行くことは叶わなかったが、君の恋人は父を迎え、労い、弔い、そして送り出した。立派なものだった。今度は君の番だ。最大限の愛情を込めて彼女を迎え、労って欲しい。
 国家は自らの呪縛により国境を越えることはできない。ただ国境を破壊するだけだ。しかし人は簡単に国境を越えることができる。彼は、植民地支配を免れ欧米の列強と相見え、狡猾に立ち回り成長と発展を遂げた日本を師と仰いでいた。彼は娘に日本に行くことを望み、彼女もそれに応えた。彼女の父の友人として、私も彼女には君と共に日本に戻ることを望みたい。
 彼女にとって最後の香港となるかもしれない。この植民地時代からの歴史を誇るホテルでの滞在が、その思い出の一つとなることを願って止まない。
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