第19話 ソシリタの気分転換がサトシに決定的な手掛かりをもたらした

文字数 2,926文字

 ロバート(チェン)は、机の前に積み上がった書類の山に囲まれ、悪戦苦闘していた。彼は湾仔(ワンチャイ)の法律事務所に籍をおくソシリタ(注:事務弁護士。日本の司法書士に近い)だ。最近は、新型感染症のおかげで廃業や倒産を余儀なくされた企業、商店の破産手続きの依頼が絶えない。仕事があるのは良いことだ。決まりきった作業の繰り返しとは言え、それなりの稼ぎにはなる。

 ちょうど銅鑼湾(トンローワン)のレストランの破産申述書類を作成している所だった。法律事務所の庶務を担当する女性がロバートのところにやって来た。

「ソシリタ、お客様がお見えです」
「また九龍(カオルン)の強欲な債権者か。いないと言ってくれ」
ロバートは顔も上げずに言った。
「いえ、日本からお見えになった方です。昨年ソシリタが担当された将軍澳の不動産売買契約と相続手続きに関係するお話しだそうです」

 普段の彼なら面会を断っただろう。だが、この時は気分転換がしたかった。まだ仕事を選ぶほどの余裕はないが、破産の仕事はもう沢山だ。

「日本から?」
「はい。若い男性の方です」
「五分後に行く。応接室にお通しして」

 ロバートは、恋人の消息を尋ねてはるばる日本から来たという青年の話に興味を持った。話を聞く限り、彼女が自らの意志で消息を断つ理由はなさそうだ。彼はバリスタ(注:法廷弁護士。日本の弁護士に相当する)ではなかったが、同じ事務所のバリスタが、ここ数年、民主化運動で逮捕された若者の弁護を多く担当している。彼女の父が民主化運動の頃に逮捕され獄死した話から察するに、彼女も逮捕された可能性はゼロではないだろう。
「念のため、事件、事故、物故の三面で調べてみよう。もちろん報酬は頂くが、はるばる日本から来たことに敬意を表して、破格の値段でやってあげるよ」
とロバートは言った。サトシは、それが高いの安いのか見当もつかなかったし、そもそもサトシにとっては目の玉の飛び出るような金額だったが、藁にもすがる思いで、提示された一万香港ドル(注:二〇二二年八月末時点のレートで十八万円弱)で調査をお願いすることにした。
 ロバートは、メイが香港に帰国して以降の警察の身元不明死者情報の調査、楊美麗を被害者とする事件および事故記録の調査、楊美麗を被告とする裁判記録の調査を約束した。サトシは、投宿先が決まっていないこともあり、自分の電話番号とメッセンジャーアプリのIDを伝え、法律事務所を後にした。

 その日は、尖沙咀(チムサーチョイ)にある美麗都大厦(ミラドマンション)のゲストハウス--美麗がメイの中国名だと言う他愛もない理由で選んだ--に泊まった。部屋は狭いが、とにかく安かった。先程、高額の支払いを決めたばかりだったので、残りの滞在期間は徹底した節約が必要だ。サトシはここを香港滞在中の拠点にしようと思った。

 ロバートが調査をする間も、サトシはメイの軌跡をたどり続けた。メイが卒業したインターナショナルスクールは、卒業生に関する個人情報なので在籍時の事は教えられない、卒業後は在籍証明を発行したことはあるが、それ以上の事は分からないとのことだった。
 メイが通っていた香港日本語普及センターでは、メイのことを覚えている人はいなかったが、日本語能力試験を素晴らしい成績で合格したことと、日本語スピーチコンテストで二回優勝しているということは分かった。

 二日後、ロバートから調査が完了したとの連絡があった。サトシは、随分早く出来るものだと感心しながら、法律事務所に向かった。

「最初に、各種の事件、事故データベースをあたったが、彼女が被害者として登録された記録はなかった。従って、彼女が何らかの事件に巻き込まれたとか、事故に遭って死亡したとか、怪我で入院している、という可能性はないだろう。次に、遺体・遺骨の引き取り手がなく各行政地域で保管されている者のデータベースだが、これにも彼女の名前はなかった。更に、この一年間の身元不明死者のデータベースにも、彼女の特徴--年齢、身長、顔写真--に合致するものはなかった」

 サトシはメイが今も生きている可能性が高まったことには安堵したが、行方を探す手がかりが得られなかったことに失望した。ロバートは話を続けた。

「で、本題だが、彼女の裁判記録が見つかった」

「えっ、本当ですか!」
サトシは身を乗り出した。

「国家安全法違反で、国家安全に係る機密情報の秘匿と隠滅の罪とある。かなりの重犯罪で、一般的な言い方だとスパイってやつだ。一年前に原訟法庭で禁錮刑二十ヶ月の判決が出ている。控訴されていないので確定判決だ。ただし、判決後の情報は追えない。こちらで出来るのはそこまでだ」
「収監先などは、どこに聞けば分かるのですか」
「裁判で弁護を担当したバリスタは分かっている。あとで渡す調査報告書にも書いてあるよ。但し、不用意にそいつにコンタクトするのは絶対に止めてくれ。今の香港では政治犯の関係者というだけで勾留や逮捕が十分あり得るからね。もう一つはCSDに情報開示請求することだ。ただし君は日本人で、彼女は香港人だ。しかも血縁関係も婚姻関係もない。恐らく請求は受理されないだろう」
「そうですか」
サトシは肩を落とした。が、諦めなかった。残された手がかりは例の手紙だけだ。

「突飛な話で恐縮ですが、ウィル・ホンという人を探しています。彼女の父の友人だと言うことなので、恐らく年齢は五十歳代。金融投資関係の仕事をしている、と言うことしか分かっていません。他に手がかりはないので、ウィル・ホンが何人いても片っ端から探して会おうと思っています。ついては香港でウィル・ホンと言う名前を持つ人の一覧作成をお願いすることは可能ですか?」

 ロバートは考え込んだ。それはあまりにも無理難題だ。十八ある行政地域全てに開示を請求することになる。問題は請求の理由だ。アントニー楊の友人を探している、ではお話しにならない。かといって受理されるような理由は思いつきそうにない。個人情報保護の壁は、いかに法律事務所であっても簡単には突破できないのだ。

「全ての香港人を対象に調べるのは不可能だ。人探し専門の調査会社はあるが、時間も費用もべらぼうにかかる」
「その専門の調査会社に頼んだ場合は、どれくらいかかるものなんですか」
「期間は六ヶ月前後、調査費用は今回の二十から三十倍以上だ。それに対象人物の情報が少なすぎる。もっと手がかりが必要だ」

この時、ロバートにアイディアが浮かんだ。
「しかし紳士録なら事務所にある。今ここに持って来させよう」

 ロバートは、紳士録のHのページを開けて、調べ始めた。ウィル・ホンと言う名前の人物は一人だった。彼は該当ページの一行を指差した。
「この人物が君のお目当てかどうかは分からないが、君の言う人物像には合致してそうだ。投資会社経営、五十歳代。中環の高層ビルの六十八階にオフィスを構えている。まずはこの人物をあたってみてはどうだい」

 ロバートは紳士録のコピーを添えて調査報告書をサトシに手渡した。サトシは受領書と完了確認書にサインし、調査報酬を支払った。サトシは礼を言って、法律事務所を後にした。

 ロバートは、報酬を安くし過ぎたとは思ったが、良い気分転換になったと大きく伸びをして、破産請負人の仕事に戻った。
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