第8話 蟲毒

文字数 1,696文字

「これ。その言い草は何事ですか? 

王太子殿は、そのように、軽々しく立ち寄れる場ではありませんよ。

お訪ねになるのでしたら、事前に、王太子殿へお伺いするのが礼儀では? 」

 乳母が、神馬卿をとがめた。

「それは、王太子妃のお言葉ですか? それとも、あなたの言葉か? 」

 神馬卿が上目遣いで、乳母に訊ねた。

まるで、蛇が、蛙をにらんだ時みたいなするどい眼力に、

一瞬、その場の空気が凍りついた。

「それは‥‥ 」

 乳母が口ごもった。

「王太子殿へ、神馬卿がまもなく、お訪ねになるとお伝えせよ」

 乳母の隣に座っていた王太子妃付の命婦があわてて、外に伝えた。

「これはどうも」

 神馬卿が、ニヤリと笑うと居所をあとにした。

「なんなんだ、あいつは‥」

 蓬莱鷹羽が舌打ちした。

「失礼しても、よろしいですかな? 」

 神馬卿と入れ替わりに、聞き覚えのある声が聞こえた。

「もしかして、今のは、乙津様の声ですか? 」

 常世が、乳母に訊ねた。

「神馬卿と違って、乙津様は、礼儀をわきまえたお方であるのに、

急な来訪とはどうなさったのだろう? 」

 乳母が、そう言うながらも応対に出た。

「我がお呼びしました」

 乙津の姿が見えるなり、蓬莱鷹羽が告げた。

「もしかして、たった今まで、神馬卿が、こちらにおいででしたか? 」

 乙津が席に着くなり、蓬莱鷹羽に訊ねた。

「さようです。お会いになりましたか? 」

 蓬莱鷹羽が言った。

「ええ。お見かけしただけで声はおかけしませんでしたがね。

風の噂では、長患いをしておられると聞いておりましたが、

ずいぶんと、お元気そうで驚きました」

 乙津が皮肉たっぷりに言った。

「どうせ、仮病に決まっております。

政敵の祝宴などに、足を運びたくないということでしょう」

 蓬莱鷹羽が毒づいた。

「乙津様。何かおわかりになりましたか? 」

 乳母が身を乗り出して、乙津に訊ねた。

「ところで、こちらでは、猫か何か、いきものを飼っておられませんか? 」

 乙津が、部屋を見渡すと言った。

「いいえ。何も飼っておりません」

 乳母が、ふしぎそうな顔で言った。

「あの日以来、獣臭が、部屋中に立ち込めているのは気のせいですかのう。

以前、飼っていたということはござらんか? 」

 乙津が神妙な面持ちで、乳母に訊ねた。

「いいえ。こちらに移って来てから、

1度たりとも、人以外のいきものは入れてはおりません! 」

 乳母がきっぱりと答えた。

「乙津殿。もしかして、蟲毒をお疑いですか? 」

 蓬莱鷹羽が、乙津に訊ねた。

「まあ、そんなところです」

 乙津が咳払いして答えた。

「蟲毒というのは、獣や虫を使った呪術のことでしたか? 」

 乳母が、乙津に訊ねた。

 これまでの歴史において、皇位継承争いの末、

敗者の中から、蟲毒の罪で捕らわれの身になったお方が

数知れずいたことは確かだ。長く、後宮にいると、

物騒な話を耳にすることも少なくない。

乳母が、【蟲毒】について知っていたとしても、

何ら、ふしぎではないということだ。

「さようです。犬は犬神。猫は猫鬼。

それぞれに呼び名があります。

たとえば、猫鬼は、人に化けたり言葉を話したりして、

人を驚かすことが主で、人にとり憑いて思いのまま操ることがあろうとも、

死に追いやることは稀な話です。

呪術者が好んで行うのが、蛇、毛虫、ムカデ、蛙などをたくさん集めて

壺に入れて戦わせた後、生き残ったものから

抽出した毒を呪いたい相手の飲み物に入れる毒殺です。

見た目の不気味さも相成って、相手を脅かすには効果絶大だからでしょう」

 乙津が、蟲毒について記された巻物を床の上に広げてみせると説明した。

「獣臭がするということは、獣の線をお疑いということですか? 」

 蓬莱鷹羽が興奮気味に言った。

「あの、すみません。もしかしたら、我のせいかもしれません」

 年若い侍女が名乗りを上げた。

「それは、いったい、どういうわけだ? 」

 蓬莱鷹羽が、その年若い侍女に詰め寄った。

「実は、居所の近くで、迷い猫をみつけまして、

こっそり、飼っておりました。

なれど、先日、ぱったり、姿を消したんです。

おそらく、死に場所を探すため行方をくらましたのかもしれませぬ」

 その年若い侍女が訴えた。
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