風向

文字数 1,941文字

秋と二人で会うようになって、まだ付き合う前の頃。秋は私の地元に行ってみたいと言った。朝早くに迎えに来た秋はバイクに乗っていた。SR400。ヘルメットを渡された私は初めてバイクに乗る。バイクの後ろは私にとって楽しいものだった。不安はあったけれど、秋につかまっていれば安心できたし、風を切って走って行く感覚は爽快なものだった。里実に話すと「疲れそう。車がいいな」と言われたけれど。休憩を取りながら、二時間もかからず着いた。私は何度か行ったことのある、魚料理の美味しい定食屋に行こうと言った。そこは、新鮮な刺身や天ぷらや煮付けなんかが選べて、両手のひらくらいの大きなお椀に入った味噌汁がついてくる。美味しいと言って、秋はほんとうに美味しそうに食べていた。その日から私達は付き合うことになった。そしてすぐ、私は秋の住む家に引っ越した。

仕事終わり、携帯を見ると千弘(ちひろ)くんから連絡がきていた。
久しぶり。今日仕事?もし予定なければ会えないかなあと思って。今ピサに来てるんだけど。
私は電話してみた。
「千弘くんこっち来てたんだ。今仕事終わったから今から行こうか?私だけで良ければだけど。秋は仕事だと思うし」
「おつかれさま。香ちゃんが良ければぜひ。実は合う予定の友達に来れないって言われて。こんな形で誘ってしまったんだけど。急にごめんね。でも来てくれるの嬉しいよ。待ってる」
最近私はよく人に会っている。特別誰とも会わない日が続いていたのに。
千弘くんも秋の幼馴染。三人は小学校から一緒で、仲良くなったのは中学二年に同じクラスになってから。高校は別々だったけれどよく会って遊んでいた、そうだ。
私にはまた、ピサに行くきっかけができた。そのことがとても嬉しい。
千弘くんは入ってすぐのカウンターにいた。
「香ちゃん久しぶり。一年ぶりくらいだね」
変わらない髭と、肩までの髪がよく似合っている。
「しばらく会ってなかったよね。今日は誘ってくれてありがと。急でも嬉しかったよ」
「久々に、今日こっち泊まって帰れる日だったんだよね。それで予定合わせて来たのに。仕事で無理とか言われて。遥に相手してもらってたんだよ。それで香ちゃんの話になって。思い切って連絡した。せっかくだしテーブル行こ」
「いらっしゃいませ」
遥くんとアルバイトの男の子が一人。今日店は忙しそうで、遥くんはオーダーを取りながらそう言って笑いかけてくれた。
「焼鳥?これって」
テーブルには私もよく食べたことのある焼鳥がお皿に乗って置いてある。ピサよりだいぶ西にある三人の実家近くの焼鳥屋。焼鳥の間に玉ねぎが挟まれていて、タレがとても美味しい焼鳥。特にせせりが好きだった。よく秋と千弘くんと、千弘くんの奥さんの(こころ)さんと行った。その頃は彼女さんだったけれど。
「帰ってすぐ実家行ったから、どうしても食べたくて買ってきたんだよね。遥!忙しいとこごめん。これ温め直してくれない?」
千弘くんは今、心さんの実家近くのアパートで暮らしている。妊娠が分かって結婚を決めてから引っ越した。時々この辺りに遊びに来ているよう。
テーブルには持ち込んだ焼き鳥と季節のサラダ、今日おすすめの和風ポトフ、それにオニオンリングが並んだ。焼鳥は懐かしい味がした。
お互いの仕事の話や、千弘くんと心さんの二歳になった可愛い怪獣の話。優弥くんが別れると言っていたこと、最近またピサによく来ていること。千弘くんの穏やかな雰囲気は、私を話しやすくさせてくれる。
「秋は今日、仕事なんだ?」
「仕事だと思うよ。今日は会ってなくて。今は何処にいるんだろうね」
千弘くんは飲み物を追加してくれる。
「香ちゃん。秋と一緒にいて、今楽しい?」
私は残りの赤ワインを飲み干した。
「今。楽しいよ。秋優しいし」
アルバイトの男の子がテーブルにグラスをおいてくれる。麦焼酎の水割りと赤ワイン。
「そっか。もう四年だね。秋が誰かと住むの意外だったけど。香ちゃんならすぐ納得できた」
「私一人だったから。可哀想に思ったのかも」
千弘くんは優しく笑う。優しい目をしている。
「一人にさせたくなかったんじゃないかな。でも秋は、今までもこれからも変わらないと思う」
私はその優しい目を真っ直ぐ見てしまう。
「自分にとって心地良い場所って大切だよね。一人でも。二人でも。見つけたり作っていければいい。どこかにあれば。俺は香ちゃんには自分らしくいてほしい。そう思ってるから」

夜風が心地良い。バイクに乗ればもっとこの風を感じられる。秋に頼めば乗せてくれるだろう。でも今の私は、この風を自分の力で受け止めたい。春の夜はまだ肌寒いかもしれない。夏の終わりの夜は心地良いはずだ。冬場はしっかり着込んで暖かい昼間に走れば大丈夫。きっと一人でも、いつか乗ることができるかもしれない。

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