野菜の旬

文字数 1,670文字

ひとりになりたかった。
ほんとのひとりぼっちに。
今の場所を離れることが、その時の私には必要なことに思えた。事務の仕事をして貯めた、ほんの少しのお金で一人暮らしをしようと決めた。どの辺りにしようか。きっちり離れなくては意味がない。地元を離れて車で二時間。
家を決めて、土地を知って、仕事を決めて、生活を始めた。ひとりぼっちだった。始めた仕事は服をある程度着こなさなくてらならなかった。少しでも綺麗に着こなしたくて食べることが面倒になった。それに一人分の食事を用意することは、思っていた以上に難しいことだった。
地元の友達が遊びに来てくれた。父が様子を見に来てくれた。その度に生きようと思えた。時々店にヘルプで来てくれてた美玖ちゃんにご飯に誘われた。私は少しずつ自分を取り戻した。
仕事帰りひどくお腹が空いていた。駅にあったお弁当屋で大きなのり弁当を買った。左半分には鰹節と醤油を絡めたお米に、大きな海苔が乗ってある。その上に白身魚とちくわの磯辺揚げ、それにきんぴらごぼう。右半分には卵焼きと焼き鮭、野菜コロッケにたくあん。味のない白いスパゲティが少し。私はそれを全て食べた。ひとりで生活するには十分な広さの、ベットとテレビと机のある部屋で。そしてそこで、初めてひとりぼっちの正月を過ごした。ほんとのひとりぼっち。

今日は平日なのに忙しい。
季節の変わり目。
私と美玖ちゃんとアルバイトの環奈(かんな)ちゃんが接客をして、店長はレジ担当。悪気はないのだろうけれど、一言多い不器用な私達の店長。忙しくしてたくさんの服が売れるのは気持ちがいい。喉はカラカラだけれど。少し落ち着いてきたところで水分補給。今日は水筒にジャスミン茶を入れてきた。飲むだけで少し気分が変わって、私はこの独特の香りが好きだ。
「香。透明感のある男の子がこっち見てる」
美玖ちゃんにそう言われて店の前を見ると遥くんがそこにいた。ゆったりした白のワイドパンツがよく似合っている。水筒を置いて駆け寄ると遥くんはにっこり笑った。
「香さん!いた。よかった。優弥さんにここって聞いて」
「どうしたの?なんでここに」
買い物に来たに決まっているのに私は動揺している。
「香さんここで働いてるって聞いて、今日休みで、せっかくだから買い物しようと思って」
まだ袋ひとつも持っていない。まずここに来てくれたのだろうか。
「あ、仕事中にすみません。ここメンズないですよね。他行ってきます」
気づけばまた店の中には人が増えている。
「そうだよね。なんかありがとう。ゆっくり買い物してね」
遥くんは手を振って歩いていく。もっと話がしたかったのに。
「もう少し暇なら、すぐに休憩行ってもらうのになあ」
美玖ちゃんはそんなふうに言ってから、接客に向かった。ほんとにもう少し暇ならよかったのに。

とても疲れた。体はぐったりしている。
でも今日は昨日買った春キャベツを使って、キャベツの豚肉巻を作ろうと決めていた。体は疲れているけれど、今日は何か作りたい気分。キャベツを千切りにしてレモン汁と塩を振りかけておく。水分がしっかり出たら、水気を切る。豚ロース肉の両面に多めの胡椒で下味をつけて水気を切ったキャベツを巻く。ひとつに二枚の肉を巻いてキャベツを閉じ込める。それに小麦粉、卵、パン粉の順につけるとコロッケのような形になる。それを少量の油で揚げ焼きに。見た目はまあまあだけれど、揚げ焼きで十分。キャベツが思ったより多くなって、結局たくさん作ってしまった。
春キャベツの豚肉巻、昨晩作ったかぼちゃの煮物。国産のかぼちゃが今の時期は珍しくてつい買ってしまった。やっぱり水っぽく仕上がってしまったけれど。それにインスタント味噌汁と冷凍してあったもち麦ご飯。納豆。お米を食べる日はお酒は飲まないことにしている。
明日秋は、美味しいと言って食べてくれるだろう。ひとりになるのとひとりぼっちなのは全く違うこと。私は今、ひとりぼっちではない。
涙が流れてきた。大人になってからの私はこんなふうによく涙が流れる。開けていた窓の風が冷たくなってきた。私は今夜、時間を持て余している。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み