治療薬

文字数 1,737文字

小さい頃、怪我をするとすぐに痛みを訴えた。それはほんの擦り傷でもそうで、血が出れば尚更。熱が出た時は、決まって同じ夢でうなされた。高熱は私にとってほんとうに苦しく痛いものだった。私は痛いと言えるきっかけがほしかったのだと思う。その全ては大した怪我でも病でもなく、どれもすぐに治ってしまった。私は大人になってからも大きな怪我をせず生きている。それはとても恵まれていることだ。

今日は揚げ物が食べたい。
フライドポテトとオニオンリング。揚げ物を持って帰っても美味しくないことは分かっているけれど。私は今ピサに向かっている。朝から決めていた。メインは、朝鶏肉をスパイスに漬け込んである。あとはオーブンで焼くだけ。サラダは新玉ねぎとトマトで作ろう。今日は土曜日だから遥くんはきっといる。店から電車で三十分。ピサは駅のすぐ近くにある。
「いらっしゃいませ!」
入ってすぐ遥くんに笑顔で迎えられた。
「こっち向かってる人、香さんぽいなあって思ってたら、香さんだった」
そんなことを嬉しそうに言ってくれる。
「香ちゃん!ちょうどよかった。飲みに来たの?こっちでちょっと飲も」
奥のカウンターに座っていた優弥くんに声をかけられた。
「テイクアウトしようと思って。優弥くんいるならちょっと飲もうかな。でもなんでちょうどいいの?」
「優弥さん、別れようか悩んでるみたいで。ここ最近ずっとこんな感じで」
そう言いながら遥くんはビールを作ってくれている。優弥くんは既にお酒を何杯か飲んでいる様子だ。
「一緒にいないから結婚してる意味あるのかなって改めて思ってて。今更なんだけどね。結局同じことでまた言い合ったから疲れた」
優弥くんの仕事が不規則になったことをきっかけに、奥さんとは別々に暮らしている。奥さんも自分で経営している店があるらしく忙しくしていると聞いている。
「あれ、香?」
入口に秋がいた。数人の人達と。
「お前また女連れかよ。香ちゃんは俺の話聞いてくれてんの」
私が答えるより早く、優弥くんはそう言ってからお酒を作りにいく。
「お前と一緒にするな。遥、六人だからお願い。香、あんまこいつの話聞かなくていいから」
そう言って私の頭に手をおいてから数人のいる席に向かっていった。秋の手は冷たくひんやりしている。
しばらく優弥くんの話を聞いていた。土曜の割に暇なようで、遥くんは時々私達の会話に入ってくれる。秋はよく笑っている。私の知らないいつもの秋。
「香ちゃん、遥の連絡先知っておいてよ。ピサで何かする時、連絡するようにしたいから。俺はすぐ忘れて、当日とかに連絡するとこあるし」
「僕はちゃんと連絡しますから。でも優弥さん、それ僕が困ってること忘れないでくださいよ」
連絡先を知ることになるとは思わなかった。目の前にウィスキーのロックがおいてある。
「最後にこれよかったら飲んで。この前、ウィスキー好きなやつが気に入ってるのくれたんだけど。ロックがいいらしいから。あんまりなら遥に飲ませて」
ロックグラスに大きな氷がひとつ、とても濃い綺麗な琥珀色。普段ロックは飲まないけれどそれはとても魅力的なお酒だった。グラスを手に取り一口飲む。アルコールの高い味と一緒に柔らかな香りと滑らかな喉越し。とても美味しかった。
「香さんすごいな。ロックですか」
目を大きく開けて遥くんが私を見ている。
「遥くんも飲んでみる?」
私はたぶん酔っている。グラスを渡すと、遥くんは受け取って少しだけ口に入れた。
「これ、やばいですね。喉まで熱い」
複雑そうな顔した後、そう言って笑った。
お酒で少しお腹がいっぱいになった私は、フライドポテトだけを頼むことにした。出来上がったものを受け取って立ち上がると、秋と目が合って私は小さく手を振った。
美味しいお酒が飲めた。私は悩んでいた優弥くんの顔を思い出す。そして、ウィスキーを一口飲んだ、遥くんの表情を。今夜はゆっくり食べながら、見たかった映画を見ようと思っていた。鶏肉をオーブンで焼かなくてはならない。秋はピサの後何処に行くのだろう。

様々な小さくて鈍い痛みは時々私を悩ませる。小さな事も大きな事も、血が出ても出なくても、痛みはその痛みを感じた人にしか絶対に分からない。どんな痛みにも、寄り添ってくれる何かがあればいいと私は思う。
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