恋々

文字数 2,050文字

自分で選び進んできた。
小さな事も大きな事も。岐路。
私は後悔せずに此処にいるはずだ。それを選んだ時の私はそれが全てだった。導かれて決めて此処にいる。それはきっと、私だけではないように思う。岐路に立たされた人は精一杯で選んだはずだ。それでも、違った場所にいられたのではないのかと思わずにはいられない。これを後悔というなら、そうなのかもしれない。
歩き続けるしかない。
いつか形を変えて巡り会えると信じて。


美玖ちゃんの入れてくれたインスタントコーヒー。誰かに入れてもらうコーヒーは、なんでこんなにも美味しいのだろう。
毎朝用意してくれる朝ご飯。今朝はスクランブルエッグにソーセージステーキ。全粒粉の食パン。
「美玖ちゃん、ありがとう。今日まで」
美玖ちゃんはコーヒーを飲みながら、瞳の大きな目でスクランブルエッグを食べる私を見ている。
「寂しいかも。まだここにいて」
美玖ちゃんの家に住み始めて一ヶ月半。
ずっと側にいてくれた。なかなか寝付けない日、私の眠る布団で一緒に眠ってくれた。動悸がすると、落ち着くまで手を握っていてくれた。
人の鼓動や体温は、温かく、安心させてくれる。

秋がいなくなって、七日目の日が暮れる前。
家に美玖ちゃんが来た。
「一緒に帰ろ。私の家で一緒にご飯を食べよう」
驚いたけれど、嬉しくて、最低限の荷物をすぐ鞄に詰め込んだ。
一緒に温かい鍋を食べた。あまり食べれてなかった胃に優しく、私の全てに染み渡った。その日の夜、秋から着信があった。私は出られなかった。

美玖ちゃんのおかげで、起きて食べて電車に乗って仕事をして食べて眠る。
当たり前の日々を過ごすことができた。
秋から毎日連絡があった。
美玖ちゃんに大丈夫だと伝えてもらった。
私は逃げることしかできなかった。
でも向き合わなくてはならない。
もう一緒にはいられない。
私の気持ちは、元いた場所に帰ることを決めていた。

駅から美玖ちゃんの家に帰る途中、ピサはあった。毎日気づかれないように、遥くんを探す。決まってその姿を見ることができた。変わらずそこにいる彼の姿は、私を安心させて、心細くさせた。手の届かないところにいて、でもずっとここにいるということ。
時々連絡がきた。遥くんは秋の家を出たことを知っているようだった。何気ない内容の、返事を求めない連絡ばかり。
けれど最後には、会いたいです。と。
何度も読み返してしまう。
返事はできない。
遥くんの側はきっと幸せで、苦しくなってしまうだろう。そして間違えたことに気づく。真っ直ぐな彼に、不安定な私は必要ないことを。
秋の大切な場所を大事にしようと決めた。
迷ってはいけない。


清々しい朝。新緑の季節。
木々や植物がより一層芽吹き始めている。
身の回りの物を詰め込んだ、少し大きめの鞄を持って歩く。美玖ちゃんの抱擁を受けて部屋を出てきた。
「私は変わらずここにいるから。香の笑った顔、次会うまで忘れない」
美玖ちゃんに出会えたことは一生の宝。

朝のピサはシャッターが閉まっている。
昨日、最後に遥くんの姿を見た。
真剣な表情。
笑った顔。
考え事をしている様子。
それらを見て遠くからさよならをしてきた。
一人で。勝手に。
涙はやっぱり流れた。
まだ好き。とても。

秋に会いに行く。
朝、店がオープンしてすぐなら会えると返事がきた。あの日から、私が連絡をとったのは初めて。家の荷物は秋のいない間に少しずつ取りに行った。お互いにとって悲しい時間になった。
たくさんの店が賑わう中に秋の店はあった。その中でも一際目立っている。華やかなディスプレイと外観。秋はここで働いている。
オープン直後で、店の前に秋はいた。久しぶりに見る姿は変わらず美しく、店にぴったりと馴染んで私には眩しく見えた。私に気づいた秋は目を大きく開け、すぐこちらに向かってきた。
「久しぶり」
私は笑顔で頷く事ができた。

店の近くの街路樹を少し歩くと、芝生やベンチが並ぶ公園がある。私達は自然とそこに向かっていた。何度も一緒に来て一緒に歩いた。
桜の木は緑の葉に色を変えて、今は藤の花が蝶のような小花を垂れ下げて、美しく咲いている。
公園に着くと、秋は優しく私を抱き寄せた。
「ごめん。会いたかった」
私は抱きしめ返すことができず手を背中に添える。
「傷付けて、ごめんなさい」
懐かしい秋の体温と匂い。
たくさんの出来事が思い出される。
この腕の中で私は生きていた。
「香。ただ、側にいて欲しい」
恋しい。
この人を好きになれてよかった。
「秋の側で私は幸せになれた。大切にしたい」
私は秋の目を真っ直ぐに見る。
「だから決めたの。幸せだった、ほんとうに。ありがとう」
秋は力無く、優しく、笑った。
「やっぱり香は、強いな」
私は最後に綺麗な笑顔をつくることができた。



恋をすること。
綺麗な花。美しい絵。美味しい食べ物。好みの食器。愛らしい動物。それから人。
私はこれからもたくさん恋をして、たっぷり空気を吸って生きていく。
恋しい想いを時々想い出して、その想いに生かされて前を向く。
きっと、大丈夫。きっと生きていける。



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