遥の想い、秋の景色

文字数 1,436文字

-遥-
毎日絵を描く。鉛筆画で描く彼女の表情は曖昧だ。いつもどこか遠くを見ているような。それか(うつむ)き加減で微笑んでいる。ここにいてくれればいいのに。そうすればはっきりとした表情が描ける。自分の気持ちに気づいた日を思い出す。
「秋さん、また来たんですね」
優弥さんは隣で焼酎の銘柄を選んでいた。
「あいつ顔広いし付き合いとかあるから。ここよく使ってくれて助かるよ」
俺は酒を作る手を止めて秋さんを見ていた。
「香さんは今、一人ですよね」
帰って来る人を待つ一人の夜は寂しい。優弥さんはいつものグラスに麦の水割りを作って、そこにカットしたレモンを入れた。
「まあ少なくとも、ここにいるときはそうだろうな」
できた焼酎を一口飲んで、並べられたグラスに酒を作り始める。
「遥は、何ができる?香ちゃんの為に」
いつも彼女が何を見ているのか知りたかった。酒を美味しそうに飲みながら、誰かの様子を眺めて微笑んでいる。全てを聞いてあげたい。どんな味がしてどれくらい美味しいのか。誰を見て何を思ったのか。目を見て、言葉にして、全てを。そうすれば彼女の和らいだ表情が見られるはずだ。必ず側にいるのに。絶対に離さないのに。この手に触れることはないのだろうか。ただ絵を描き続けることしかできない。会いたい。この手で強く抱きしめたい。

-秋-
いつも手を握っていたつもりだった。今日を生きて、先のことは考えたこともない。気づけばここにいて、目まぐるしい日々が過ぎていく。曖昧に握っていただけだったのかもしれない。もっとしっかり握りしめていなければ、いけなかった。それとも繋いでいればよかったのか。そうすればもっと笑った顔が思い出せたのかもしれない。香は此処(ここ)にいたのに。
広い敷地の大きな家。たくさんの花があった。母が出て行った日、姉がしっかり手を握ってくれていた。暖かい春の日で、その花達が咲きはじめていたような頃。それからも父は家にほとんどいなかった。姉が結婚してから中学を卒業して、母方の祖父母の家で住むことにした。祖母が死んで、祖父が死んだ。一人になって、香が此処に来た。此処には香の気配があまりにありすぎる。見えるものが少しずつ色褪せて気づいていく。香を愛せていなかったことに。


豪州産の値引きされたステーキ肉。惣菜のマッシュポテト。濃厚な赤ワインを一本。目覚めは最悪で、体が重く、ひどい頭痛がした。気分の良い、ひとりぼっちの哀しい夜だった。そのことを思い出す。体を起こすとこちらに背中を向けた秋が足元に座っていた。秋の手には私の携帯。携帯の中にある、何かを見つめている。私には状況がよく分からない。
「秋?なにしてるの?」
「遥と、連絡とってたんだ」
秋は携帯から目を離さずそう言った。
「ずっと見てたから。楽しそうに話すところ。酒を一緒に飲むところ。香が笑ってるとこ」
秋はこちらを見ない。
「それで、携帯を見てるの?」
私はもう何も信じられなかった。秋は携帯を置いて部屋を出て、家を出て行った。取り残された私は、間違ったところに居るような気がした。家中がよそよそしく、急に拒絶されているような。

愛したい。愛することができれば自分を信じることができるのかもしれない。全て受け入れて、誰かを、何かを、愛し抜く強さがあれば生きたいと思えるのだろうか。
幸せの瞬間が過ぎて、哀しみを通過して、きっとまた幸せはやってくる。それらをこれから何度も繰り返すのだろう。かけがえのない生命を大切にして、与えられた現実(いま)を、私は生き抜かなければならない。
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