早春

文字数 1,188文字

お酒を飲む時必ず最後はウィスキーを飲む。
水で割るかお湯で割る。
柔らかに香るウィスキーの香りが好き。
初めて勤めた会社で、よく連れて行かれたスナック。とても感じのいいママがいて雰囲気が良く、居心地よかった。「今日も可愛らしい子を連れてきたのね」部長にいつもそう言っていた。鯛めしやクエ鍋などでお腹が満たされた私は、そこでウィスキーを飲んで時間をやり過ごした。最後には必ず部長にきつく抱擁される。娘のように可愛がってくれた。とても良くしてくれたあの頃。私はその時、愛したい人も愛してほしい人もいなくて途方にくれいた。

隣に眠る秋。規則正しい寝息。
長いまつ毛、高い鼻、薄い唇。
体を起こし窓を見ると雪がちらついていた。廊下は特に寒く感じる。もうすぐ春なのに。
小さな庭に続く窓から雪を見た。この辺りでは珍しく少し積もっていた。まだ降りそうな空色。
窓を少し開けてみる。
雪だるま?
小さな雪だるまがそこにはいた。
秋だ。笑ってしまう。何もかも愛おしく思える。
机には気に入りのショコラカンパーニュとヴィーガンマフィン。なんだかとても嬉しくなる。秋の存在が今日という一日が。
珍しく電話が鳴った。
「起きてた?今日休み?今大丈夫?」
里実(さとみ)からだった。唯一の親友。
「大丈夫。久しぶり。そっちこそ大丈夫?」
里実は今一歳二ヶ月の子育て中だ。妊娠中はよく電話をしていたけれど出産後は連絡を待つようになった。
「眠ってるの。話がしたくなって。別になんにもないんだけどね。香の話、聞きたくて」
地元にいるいつもの親友の声。久しぶりで、お互い少し緊張している気がした。
「私も何もないよ。仕事行って、秋とは相変わらずで。何か面白いことあればいいんだけど」
「相変わらずならよかった。あ、前言ってた店長と真里奈(まりな)さんのことは落ち着いたの?でもだいぶ前の話だよね」
店長と真里奈さん。
あの頃真里奈さんに「香ちゃんは女の子らしくていいね。私はサバサバしてるから」そんなことを言われた。店長と真里奈さんはうまくいってなかった。ほんとにあんなこと言う人がいるなんて。真里奈さんはもう辞めてしまったけれど。
最近の出来事の話しを少しした。親友の声は懐かしく遠く感じた。子供の泣き声で電話は切ることになった。
「里実ちゃん?」
秋が起きてきた。
「そう。元気で忙しそうだった。そうだ。パンとマフィンありがとう。あと雪だるま。作ったの秋でしょ?ひとりで笑っちゃったよ」
「そうだよ。可愛いでしょ」
そう言いながら煙草に火をつける。秋の黒くて柔らかな髪。結構ひどい寝癖がついていた。その寝癖に触れてみる。
「ひどい?あ、優弥(ゆうや)昨日来てたんだけど会いたがってたよ。また一緒に行こう」
優弥くんは秋がよく行く店のオーナーで幼馴染だ。しばらく会っていない。
「それと、今日の夜は二人で外食しよ?」
今の私には抱擁したい人、してほしい人がいる。今日はとてもとてもいい日になりそうだ。
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