チョコレート

文字数 1,846文字

秋を見かけたのは働き始めてすぐ。私の目に、秋はとても魅力的に映った。自分の店に行くには、秋の働く店の前を必ず通ることになる。私は前を通るたびに秋を探していた。秋は店の雰囲気にしっかりと馴染み、私には遠い人に思えた。
働き始めて一ヶ月が過ぎた頃。休憩室に一人でいた私に、秋は「おつかれ」と声を掛けた。私は驚いて何も言えずなんとか会釈を返すことができた。それから会うと必ず、秋は挨拶してくれるようになった。感じの良い笑顔で。ちゃんと目を見て。ちょうどその頃、バレンタインが近づいていて、私はチョコレートを渡そうと決めた。迷惑がられるかもしれない。けれど私は、一度決めると迷いなく動いてしまう。何故か行動力は昔からあるほうだった。神秘的な色をしたチョコレート達の詰め合わせを用意した。あくまで気持ち程度の大きさのもの。秋が店から休憩室に行く途中、私は初めて声をかけた。驚いていたけれどとても嬉しそうに受け取ってくれた。
そして半年後一緒に住むようになって、二年後の冬の終わり、大きな店舗の店長として秋は移動することになった。

今日はお風呂を磨いた。休みの日にしないと、ちょっと頑張れない家事。
昨日たくさん食べたから今朝はあまりお腹が空いてなかった。コーヒーしか飲まなかった私は、とてもお腹が空いていることに気づく。冷凍してあった食パンを食べて、それから買い物に行こう。冷凍庫にはたくさんのものがあってなかなか見つからない。
「パン?俺にも焼いてくれる?」
秋が起きてきた。とても眠そうな目をして、声が少し枯れている。
「食パンでいい?あ、ちょうど二枚残ってた。チーズのせるよ?」
秋は朝食べる時、マーガリンを塗った食パンにチーズをのせたものを食べる。今日私は、半分マーガリンで半分はジャムを塗ろう。二杯分のコーヒーをコーヒメーカーで作る。朝、秋と向かい合っているのは久しぶり。
「昨日飲み過ぎた。面倒な人多くて、なかなか帰れなかったし。あんまり食べなかったから、今も気分あんまり良くない」
「それは楽しくなさそうなお酒だね。でもその集まりはしばらくないんでしょ?今日はたくさん寝るしかないね」
秋は食パンをすぐ胃に収めてしまった。煙草に火をつける。
「ごちそうさま。今日さ、夜優しい献立にしてほしいな。もしまだ決めてなければ」
「今から買い物行くから。考えてみる」
秋から前もってリクエストされるのは久々だ。私は栗ジャムを塗った残りのパンを食べた。コーヒーを飲みながら皿を洗う。何を作ろう。

駅と反対側の方向に少し歩くとスーパーと小さな商店街がある。スーパーは駅の近くに比べると少し大きく、日用品なんかも売っていて便利だ。今日は鯖の塩焼きにしよう。大根おろしも添えるとさっぱりする。魚メインでもやっぱり少しお肉も欲しい。鶏肉を塩麹で蒸したものにしよう。新玉ねぎと春キャベツを一緒に。あとは冷奴ときゅうりの浅漬け。それにわかめのお味噌。卵、牛乳、切らしていた鰹節。必要なものを買った私は帰りにケーキを買いに行く。少し前に見かけた桜シフォン。今日はそれが食べたい。スーパーから少し歩いたところにあるケーキ屋。可愛らしい外観。ケーキが食べたくなると私はここに買いにくることが多い。桜のシフォンはちゃんとそこにあった。秋の好きな、抹茶のフィナンシェも買って帰ろう。これは個包装してあって日持ちするからきっとまた食べるだろう。帰ってゆっくり食べよう。今日は天気が良い。日差しが少し暑いくらいだ。秋から連絡がきた。
仕事関係の人と会うことになった。ほんとにごめん。買い物したよね?必ず明日食べるから。今から行ってくる
私は立ち止まってしまう。ケーキ、自分の為にもうひとつ買えばよかった。
家に秋はもういなかった。静かな家。この間買ってきたばかりのスプレーバラが枯れている。何がいけなかったんだろう。携帯が震える。
こんにちは。昨日はありがとうございました。香さんストール忘れてたから、明日届けます。都合良ければ、香さんの仕事が終わる時間に持って行きます。僕明日休みなのでいつでも大丈夫です 

恋をして、一緒に笑って食べて、同じ景色を見た。触れたくて、ひとつになって眠って、一緒に目を覚ます。知らないところで笑って、見えないところで泣いて、違う景色を見てる。
近くにいればいるほど秋を遠く感じる。離れているときのほうがずっとずっと秋の気配を感じられる。これから先、また同じ景色が見たいのか分からない。ただ、あの頃に戻りたい。秋に恋をしたあの頃の自分に。
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