願い事

文字数 2,159文字

私は西洋画や西洋建築が好きだ。美しい色合いや歴史を感じさせてくれる絵を見ると心が落ち着く。変わらずずっとそこにある建物。石畳や石造りの家。まだ未完成の建築物。それらを描き修復して作り上げる人々がいるということ。きっといろんな思いをもった人々なのだろう。そう思うと救われる。私はそれらにいつか触れて生きて死ぬことができればいいと思う。叶わないと思うけれど。

休憩室の自動販売機で、ミルクティーとホットレモンを買った。環奈ちゃんにミルクティーを渡す。大学二年生の環奈ちゃんは店にアルバイトに来て二ヶ月目。私はホットレモンを一口飲む。温かくて甘酸っぱくて、疲れた体に良い気がする。
「香さんの彼氏さんてどんな人ですか?」
私はすぐに答えれずもう一口ホットレモンを飲む。
「私、もうすぐ付き合うことになりそうな人がいるんですけど。一緒にいる時は楽しいけれど、会わない時、連絡が多いことが気になって。香さん、彼氏さんと長いですよね?どんな人と一緒にいるのかなって」
環奈ちゃんの短い髪の襟足を見ながら考えてみる。小さな顔に短い髪が似合っている。
「優しい人。仕事に真面目で尊敬もしてる」
それ以上言葉が出てこない。
「香さんにぴったりな人なんだろうなあ。なんか香さん落ち着いてるから。当たり前に一緒にいるなんて羨ましいです。私はどこが好きかうまく言えないから付き合うのどうしよう」
言葉にするのは難しい。でもうまく言葉にできなくても好きの気持ちはすぐに分かる。好きは好き。好きと言えないなら、それは一緒にいないほうがいい。
「もう少し会ってみるとか?そのほうが今の感じを楽しめる気がするな」
「そうですね。まだはっきりしない感じで」
少し休憩してあと少し働けば帰れる。

大切なストールを持ってきてくれる。出していた荷物を鞄に詰めながら鏡を見ておく。店から館内の出入り口に向かう。連絡してみよう。外は予報通り、小雨が静かに降り始めていた。遥くんは出入り口近くの広場にいた。
「香さん。おつかれさまです。ストール。持ってきました」
いつからここで待っていてくれたのだろう。紙袋には丁寧に折り畳まれたストールが入っている。
「ありがとう。大切なものだったからすぐに取りに行こうと思ってた。せっかくの休みにごめんね。また、ピサ行くから」
「これから予定、ありますか?行きたい店があって。一緒に、行けないかな」
遥くんは不安そうな表情でそんなことを言う。ストールを受け取るだけと思っていた私はすぐに返事ができない。
「えっと。予定ないよ。一緒に行こうか?」
「はい。たぶん香さん、気にいると思う」
二人で傘をさして歩いていく。傘をきちんと持ってきてよかった。しっとりとした雨音。
「ここの駅から少し歩いたところにカフェがあるみたいで。そこでは甘いものとお酒が一緒に飲めるそうなんです。行ったことないけど、お客さんが教えてくれて」
「そんなところあったんだ。私、甘いものに合わせてお酒飲むことがあるから。行ってみたい」
「よかった」
遥くんは私の表情を見てから、優しく微笑んでそう言った。
住宅地を少し歩くと、家と家の間にカフェらしき建物があった。外観は家のようだけど正面に窓はなく、真っ白の壁に真っ赤な扉。扉を開けるとすぐレジがあって、その横に階段。二階に上がるとソファやベンチ、いろいろな種類の椅子とテーブルがおいてあった。正面になかった窓が、左右と裏側にはいくつかある。不思議と落ち着く空間。私達は窓際の奥のテーブルに座ることにした。メニューにはサンドイッチ、パスタの軽食が少し。後はスイーツのメニューがたくさん。スコーン、マフィン、ケーキ、パイ、パンケーキ、パフェ。私は一通り見て栗のテリーヌが食べたいと思った。それにはウィスキーがきっと合う。遥くんはメニューを見ながら
「香さんと同じものにします」
「それでいいの?」
「それがいいので」
それらはすぐテーブルに届いた。お皿には薄くカットされたテリーヌが二つ。二重グラスに入ったウィスキーの湯割り。濃厚な栗の甘味に洋酒で香り付けされたテリーヌはしっとりとしていて幸せな気持ちになった。私達は目が合うと、どちらも美味しいと思っていることが分かった。
「遥くんはどうしてピサに?」
「優弥さんが大学の先輩の知り合いで。よくピサに行ってたんです。卒業してから何もしてなかった俺に声をかけてくれて。飲食店で同じようなアルバイトをしてたからすぐに引き受けました」
遥くんは飲み慣れてないウィスキーをゆっくりと飲む。
「今は、ピサでしっかりやっていこうと思ってます。でもいつか、いろんな国に行って絵を描きたい。美大に行こうと思ったけど、まあ絵は描ければいいと思って。知らない国の人達とそこにある景色を見てみたい。必ず。いつか」
外は雨が降り続いている。傘を忘れてこればよかった。遥くんは傘に入れてくれただろう。そうすれば、少しでも近づくことができたのに。

一緒に行きたい。そう言えば、わがままを聞いてくれるかもしれない。西洋美術に触れに行こうと言ってみよう。きっとたくさんの景色を見て絵を描けることができるから、と。私は彼の描く全てを見たい。彼の側で少しだけ生きて、それから、そこで一人死ぬことができるといい。叶えることはできないだろうか。
私は少しずつ壊れていく。
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