洋梨のタルト

文字数 1,838文字

私はきちんと生まれて正しく育ててもらえた。ピアノと水泳を習って、遊園地やキャンプにも連れて行ってくれた。カレーも焼肉も苺のショートケーキもたくさん食べた。でもその全て、私にとっての好きはなかった。わがままで神経質で不器用な子供だった。それは大人になれた今も変わっていない。

昨日、遥くんがくれたパンをお昼に食べよう。「香さん、パンよく買ってくれるって聞いたから」そう言って帰る前に手渡してくれた。抹茶のフランスパン、チーズとペッパーハムのカスクート、桜マフィン。遥くんが前もって用意してくれていた新作。プレゼントだと思うと舞い上がってしまう。パンだけれど。私はパンが好きだ。
氷水で浸しておいたベビーリーフを水切りする。半熟で作ったゆで卵と、買ってきたローストビーフ。それにカスクートを食べよう。コーヒーは少し酸味のあるモカを入れる。二人用のダイニングテーブルから見える空は薄暗く雨が降り出しそうだ。今日は朝のうちに用事を済ませたから、もうずっと家に居ることができる。
食べ終えた私はフランスパン半分とマフィンを冷凍した。時々、パンを買いすぎて冷凍庫がいっぱいになってしまう。そうならないように、いつも気をつけているけれど。
里実に電話してみようか。皿を洗いながら思いつく。でも忙しくしてるかもしれない。ゆっくりしているかもしれない。どちらにしても出てくれれば少し話しができる。洗い終えた私は電話をすることに決めた。
「香?私も電話したいと思ってたの。何かあった?」
里実はすぐに電話に出た。
「何もないよ。電話してみただけ。羽月(はづき)ちゃんは?」
「YouTube見ながら踊ってる」
写真でしか見たことこない里実の子供の姿を想像してみる。
「可愛いね」
「さっきまで機嫌悪かったけどね。昨日夢に香出てきたから電話くれたのびっくりした。内容は忘れたけど楽しかった気がする。それで電話してみようか迷ってた」
「夢に出てきたの?なんか嬉しい」
私は苦味の強いブラジルコーヒーを入れる。
「香、たまに出てくるよ。いつもあまり覚えてないけど。それでね、昨日は大変な日だったんだよ。夜ご飯食べ出したら羽月が吐いちゃって。熱測ったら三十九度もあったの。急いで夜間診療の場所確認して。受付がどこにあるか分からなくて。羽月は苦しそうだし。(よう)くんは頼りなくて腹立ってきて。ちょっと喧嘩みたいになって。先生診てもらって、座薬貰って帰ってきたの。でも今羽月、全然元気なんだけどね。すごく疲れて。誰かと話したかった」
里実の旦那さん、洋介(ようすけ)さんは背が高くて感じの良い気さくな人だった。地元に帰った時何度か会ったことがある顔を思い出す。
「大変だったね。感情的になった後って私もよく落ち込む。でも羽月ちゃん元気になってよかった」
「香、近くに居てくれたらなあ。こんなことでもすぐ聞いてもらえるのに」
「いつでも電話してくれればいいよ。私何でも聞くから。出れなければ掛け直す」
窓に人の気配を感じると家のチャイムが鳴った。
「ごめん、誰か来たみたい」
「そっか。少し話せてよかった。また私からも連絡するね」
引戸を開けると傘をさした伊代子さんだった。
「こんにちは。香さんあんこは好きかしら?ここの大判焼き美味しいの」
伊代子さんはそう言って、茶色の紙で包まれた大判焼きを紙袋から取り出す。
「あんこ好きです。わざわざすみません。頂きます」
「よかった。秋くんもあんこは好きでしたよね。じゃあ二人で食べてね」
秋は甘いものはあまり食べないけれど、小さい頃から和菓子は好きだったようだ。受け取った大判焼きはまだ温かく香ばしい香りがした。
黒豆茶を入れる。私はそれと一緒に、まだ温かい大判焼きをひとりで食べた。上品な甘さの粒あん。生地はもっちりしていてしっかり甘みがある。里実は私を必要としてくれている。そう思うと今すぐ会いたいと思った。窓の外では大粒の雨が降っている。

大人になれた私は、遊園地ではなく水族館に行くことができる。キャンプではなくグランピングがいい。ピアノは弾けなくても聞きに行こう。水泳はしばらくしてないけれど浮くことはできるかもしれない。カレーはインドカレーを選ぶ。焼肉はお酒があれば楽しめる。苺のショートケーキではなく洋梨のタルトを探しに行こう。
私は自分で選びそれらを手にすることができる。それは果てしなく自由で永遠に孤独だ。
一人は寂しすぎる。でも誰かと一緒にいればいるほど、私はもっと寂しくなってしまう。これからもずっと私は、幸せにはなれないだろう。
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