軌跡

文字数 1,865文字

私は甘いものをお腹いっぱいになるまで食べた。
ホールのチーズタルトに赤ワイン。アイスクリームBOXに安価なシャンパン。チョコレートの詰め合わせにウィスキー。そうすることで満たされることを知ってから、何度も。依存。そうしなければならない状態になることは正常ではないのだろう。今も甘いものは好き。でもあれほど食べることがなくなったのは秋のおかげだ。
食、酒、煙草、ギャンブル、薬。そして人。依存して一時的にでも救われるのならいいのではないだろうか。でも結局、依存して破滅していくのは自分自身だ。

家に着きましたか?テリーヌ美味しかったですね。次は美術展に行きましょう。ピサでも待ってます。おやすみなさい
遥くんからの連絡を何度も読み返してしまう。帰りの電車は横並びで一緒に座った。体温を少し感じられる距離に、私はとても緊張してしまった。

チョコとナッツのシリアルとコーヒーを飲む。今日は特に予定のない休日。前住んでいたマンション近くの駅まで行こうと思いつく。引っ越してから一度も行くことはなかった場所。今の私には、振り返って立ち止まる必要があるように思えた。
今住んでいるところから西へ二十分。住宅地が多く静かで落ち着くところ。懐かしい感じがした。たった半年くらいしか住まなかったけれど、ここは私にとって大切な場所だ。駅を降りてすぐにある何度も行ったドラッグストア。そこから少し歩くとマンションを決めた不動産屋。父と行った掘り炬燵のある居酒屋。ピアスを買った小さなアクセサリー店。それらを過ぎると見えてくるマンション。私はそこの七階に部屋を借りた。懐かしい出入り口。その横には、あの頃と同じバーがあった。静かな雰囲気のいいバーだったけど、私はそこに一人で行くことはできなかった。景色は何も変わってなかった。変わらずそれらはそこにあって、私が少し変われたということに気づかせてくれた。
少し遅くなったお昼ごはんは、大きなのり弁当を買った店に行くことにした。でもそこだけは変わっていた。同じ弁当屋ではあるけれど、ショーケースに様々な惣菜が並べられていて、お弁当は注文してから温かいご飯を詰めて仕上げてくれる。店内の雰囲気は全く違うものになっていた。私はそこで今日の日替わりを買った。近くの公園のベンチで食べることにする。温かいほうじ茶と一緒に。十六穀米に大きなだし巻き卵。唐揚げ、蓮根と菜の花の和物、牛蒡と蒟蒻と人参の煮物。美味しくて体に良さそうな優しい味。外で食べる為に、寒がりの私はしっかり着込んできた。日差しは暖かいけれどまだ風は冷たく感じる季節。通り過ぎるだけだった公園のベンチに、落ち着いて一人で座っているのは不思議な感じがした。携帯を見ると遥くんから連絡がきていた。
再来週の土曜日、ピサの五周年イベントをします。新作のパンとその日限定サンド、もちろんいつものパンも並べてあるので。たくさん飲みましょう。料理もビュッフェ式でご用意します。とのことらしいので。香さん、絶対来てください
五周年。もうあれからそんなになるんだ。
遥くんに会いに行こう。オープンまでまだ少し時間はあるけれど、店の近くまで今すぐに行きたい。ここからは電車で一時間近くかかる。振り返れてよかった。今の私はここに居る。
同じ駅でも全く違う。たくさんの人と建物。賑やかで明るくて楽しい。美味しいコーヒーを飲もう。道路を挟んで向かい側にピサが見える。ここを通って少し歩くと美味しいコーヒーを出す店に行くことができる。少し甘いコーヒーが飲みたい。温かくて甘くて安心するような。もう遥くんは店にいるのだろうか。
ピサのシャッターは半分開いていて、店の前で笑っている遥くんの姿が見えた。それに優弥くんと、秋。オープン準備をしているエプロン姿の遥くんの横で、優弥くんと秋は椅子に座って何か話している。三人で楽しそうに。私はそこから進めなくなった。前に進んではいけないことに気づいてしまった。ここは秋の大切な居場所だ。

バター、生クリーム、砂糖、ひとつまみの塩。それらでできたキャンディで私は自分を誤魔化した。すぐにやめられなかった依存。それでも大切な人ができた私は誤魔化し続けることができた。心が安定して自然な形で正常に戻った。それは確かに秋のおかげ。秋の側に居たい自分の為にできたこと。
大切な人。傷つけたくない人。そのことに変わりない。けれど変わってしまったことがある。私は行き止まりにいる。このままでは出られない。どこに出口はあるのだろう。泣きたいのに涙は出なくて、悲しいのに声を出せない。
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