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文字数 1,295文字

 あわただしくお召し物を身につけて帰っていかれるときに、あのかたは目を伏せて、ごめんね、と(おっしゃ)いました。わたしはなぐられたように思って、ぎゅっと目を閉じて息を止めて、その息をやっと吐きながら、おやめください、あやまられるなんてみじめです、と言おうと思って顔をあげたら、もうあのかたはいませんでした。忙しいひと。
 目を伏せたときに、男のかたなのにまつ毛が長くて、そしてお目の色もまつ毛の色も淡いので、目を合わせても、どこをごらんになっているのかわからないときがあります。
 そんなことをぼんやり考えていたら、うちのバルバラに見つかってしまいました。バルバラは目ざといのです。わたしが朝、こっそり自分でシーツを洗おうとしていたら、いきなり後ろで、お嬢さまどうなさったのですかと大声を出すから、わたしは動転してお水をこぼしてしまって、ふりかえったらバルバラの勝ちほこった顔がありました。もう、いや。
 そうですかそうですかそうじゃないかと思ってました、と大はしゃぎするので、誰かに言ったらわたし井戸に身を投げるから、と脅したら、バルバラはきゅうに真顔になって、
「言いませんとも、マリアさまに誓って。でもね」
と言って、またわっと笑いだすのです。「誰だって知ってますよ。お相手がどなただか」。
 ああ、もう、本当にいや。そんなにはっきり言わないで。わたしだって、みんなの目をごまかせているとは思ってませんでした。あのかたは、目立ちすぎます。あんなにしげしげ、うちにおいでになって、それもちゃんとレアティーズ兄さまのいない時に来るのだから、こっそり隠れてと思っていたのはご本人だけです。でも、わたしも、お会いしたかった。──留学先の大陸の、ヴィッテンベルクという町のことを、たくさんお話しになりました。大学のこと、そこで会われたお友だちのこと、朝夕に鳴る鐘の音のこと、町の名物の甘いリキュールのこと。わたしはもう、あのかたの歩いた石畳の感触を、自分の足の裏で知っているような気がします。大きなお声で楽しそうにお話しになって、いつかきみを連れていきたいんだ、と、そのときだけふっとお声がくもり、またあのどこを見ているかわからない透きとおったお目になって、わたしはにこにこして、ええ、ぜひ、とお答えしたけれど、そんな日がけっして来ないことは二人ともわかっていました。近い将来あのかたと並んで歩くのは、ノルウェーかイングランドからお輿入れになる姫君にちがいないのです。そのかたはきっと、どうしようもなくお美しいかたなのだろうなと、デンマークどころかこのエルシノアの都から一歩も出たことのないわたしはほんのり哀しく、それでも、身を焼くようなねたましさの起こりようもなく、だって、はじめから、わかっていたことです。それに、もうわたしは、ヴィッテンベルクの石畳と鐘の音を知っているのだから、それでじゅうぶん。
 バルバラは、うちのお嬢さまをなぐさみものにしたら、たとえ王子殿下であってもわたしたちがただじゃおきません、と息まいていて、わたしたちって誰と訊いたら、うちの使用人の女たち全員だそうです。お願いだから本当にやめて。

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