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文字数 1,710文字

 ハムレットさまのご遺言状は、たった一行でした。「ノルウェーの第一王子フォーティンブラスを、デンマーク国王に推挙する」――。兄やホレーシオさまに対するねぎらいのおことばでもなく、まして、わたしに対する愛のおことばでもなく、ただ、「フォーティンブラスを推挙する」。あのかたらしいと思いました。最期までみごとなお世継ぎだったのです。ご葬儀は、国葬でした。
 口から血の泡を吹きながら、ホレーシオさまの腕の中で息絶えるとき、殿下は、ふっと、まるで極上の冗談を思いついたかのようにほほえんで、つぶやかれたそうです。
「あとは、沈黙」――と。
 ハムレットさま。
 あなたのいない世界で、わたしは何をすればいいのでしょう。バルバラはお里へ帰って、レアティーズ兄さまの赤ちゃんを産むそうです。いばらの道でもかまいませんと言って、笑っていました。わたしも援助を惜しまないつもりです。けれども、わたし自身には、何もない。うつろです。短い夏の終わりの川岸を歩きながら、わたしは泣きました。もはや涙は一滴も出ず、ただ、自分の声とは思えない枯れた嗚咽が、ときどきのどからもれるのでした。修道院に入るなんて、とんでもないことでした。清貧、従順、貞潔。三つの誓いは、もともとわたしの望みではありました。けれどもいま、足の指さきまであなたへの思いに満ちみちて痛いほどなのに、どうしてこんな心で、神さまにお仕えできるでしょうか。
 苦しいです。このまま一生、あなたを愛しつづけるのでしょうか。一秒、一秒、火にあぶられるような苦痛にさらされながら、何十年を耐えて、老いていくのでしょうか。それとも――忘れるのでしょうか。わたしのなかからあなたの痕跡が、すべて消えてしまう日が来るのでしょうか。それだけは、いやです。この耳にあなたのお声が、この肌の上にあなたのお手や唇のあとが残っているうちに、死にたい。でも、死ねない。全能の神が自殺を禁じておられる以上、それにそむく勇気は、わたしにはありません。
 道みち、花を摘んでいました。手あたりしだい。とくに意味はありません。ただ、みんな、散ってしまえばいいと思ったのです。怒りに近かったかもしれません。なぜわたしだけが、と思いました。お母さまを送りお父さまを送り、お兄さまを、ハムレットさまを送り、お墓に花を撒く役は、もう、もう、たくさんです。わたしはなんのために生まれてきたのでしょう。送るひとが誰もいなくなったいま、生きることになんの意味があるのでしょう。
 小川をのぞきこむように、柳の木がかしいで生えています。灰色の葉裏を鏡のような水面に映しています。きんぽうげ、いらくさ、ひなぎく。死人の指という名の冷たい紫の蘭。摘んだ草花はいつのまにか、わたしの手の中で花輪になっていました。あの柳の木の枝にかけて帰ろうと思いました。とくに意味はありません。本当に意味はなかったのです。
 枝が折れて――
 花輪が、水の中に落ちました。少し先のところで、渦に巻きこまれていったん沈み、また浮き上がって、流れていきます。ばかみたい、と思いました。何もかもどうでもよくなりました。ぼんやりと、歌をくちずさんでいました。ほんとうの恋人を、どうやって見わけるの。巡礼の帽子と杖、サンダルをつけたひとなの。水は、遠くからは白く輝いて見え、近づくにつれて翡翠(ひすい)のような色でしたが、真上から見たら、透きとおっていました。底が見えるようで、見えない。ハムレットさまのお目と同じ。どれくらい冷たいのか、さわってみたくなりました。手をのばして指をひたしたら、冷たかった。しびれるほどではないけれど、ずっとひたしていたら、からだが冷えていくだろうと思いました。冷たい。ハムレットさまのお手と同じ。いっそ、わたしを、引きずりこんでほしいのです。
 水の中へ。
 もう少し手をのばせば、いいのかな。もう少し。わたしは身を乗り出していきました。離れたところから見たら、さぞかしへんな格好だったことでしょう。何をしているのだろうと思われたにちがいありません。もう目の前に、水面がありました。わたしの顔が映っていますが、黒くかげって、穴のようなのです。
 オフィーリア!

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