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文字数 3,525文字

 お父さまの遺骸(なきがら)のそばにいても、少しも怖くはありませんでした。もし亡霊になって出てこられるなら、むしろお慕わしいほどでした。調子が良くて、そそっかしくて、いつもつまらないご冗談ばかり仰って、わたしたちをたくさん愛してくださったお父さま。けれども、その暖かい思い出を抱きしめるには、この石のお城はあまりに底冷えがしました。
 王妃さま、うちの父が、本当に申し訳ございません。おそれおおくもご寝所にひそんで盗み聞きだなんて、なんというまねをしたのでしょう、ふつうそこにいていいのは、国王陛下だけですのに。だから、まちがわれたのです。お芝居を書き変えたのは、まちがいなく、父ではありません。そんな気の利いたことができる父ではありません。できるひとは、ひとりしか、おられません。父はそのかたの真意を盗み聞きするつもりだったのでしょう。わたしの結婚話を、有利にすすめるために……
 はずかしい。死にたい。ああ、このみじめなからだが溶け、くずれ、露となって消えてくれたら! 王妃さま、うちの父が亡くなったいま、あなたさまとハムレットさまがどんなお話をなさったか、存じあげている者はこの世に一人もおりません。ただ、はげしくどなりあう声が廊下まで聞こえていたとか。想像するだけで胸がはりさけそうです。お母さまは殿下の、殿下はお母さまの宝物なのに、どうしてそのお二人がののしりあわなくてはならないのでしょう。ましてそれを、他人が盗み聞くなど。していいことと、いけないことがあります。
 その直前に、わたしは王妃さまにお目にかかっていました。お借りしたペンダントを返しにうかがったのです。王妃さまはぽつんと長椅子に座っておられました。わたしをごらんになって、にっこりなさいましたが、この半日で、やせてしまわれたように見えました。
「そのエメラルドは、持っていてちょうだい」と仰ったのでした。「あなたにあげる。わたくしの宝石、みんなあなたにあげたいの、オフィーリア。もらってくださらないこと? わたくしには、もう、身につける資格がないから」
 どういう意味だったのでしょう、王妃さま。
「きれいな宝石は、きれいなひとにこそ、ふさわしいのだから。わたくし、大王さまに叱られるわ、天国であのかたにお会いしたら」ふっとあたりを見まわし、「この部屋って窓がなかったのね」とつぶやかれました。「わたくし、天国に行けるかしら」
 どういう意味だったのでしょう、王妃さま。
「ねえ、オフィーリア」涙こそこぼされませんでしたが、わたしにはあのかたのお心が、泣いているのがわかりました。「女ってばかね。あなたもいつか、わかってくれるかしら。わたくし、さびしかったのよ」ほんの少し首をかしげて、ほほえまれました。まるで、お耳からさげている真珠が片方だけわずかに重くて、その重みでお首が、かたむいてしまったかのように。
「いいえ、忘れて。あなたは、わたくしのようになってはだめよ。女も、賢くなくてはだめ。自分の人生の舵は、自分で取るのよ」
 はるかかなたから響いてくるような、うつろなお声。どこを見ているかわからない、淡いお目の色。お二人は、母子でした。わたしは夢中で王妃さまに駆けよって、泣きながらお膝を抱きました。王妃さまはわたしの頬をやわらかいお手ではさまれて、たくさんキスをされ、頬ずりをなさいました。そして、白いお胸にわたしをぎゅっとお抱きになったとき、完璧によそおわれた襟もとから、わずかに、異様な、どす黒い何かが見えたのです。あれは――あれは――
 あざ、だった。
 がたりとわたしが立ちあがったので、兄はびっくりしました。
「どうした?」
「王妃さまに、王妃さまに、お会いしてくる」エメラルドをお返ししなければ。
「おまえ、ふらついてるじゃないか。少し熱いな、熱があるんじゃないか?」
「大丈夫」
「いまじゃなきゃだめなのか?」
「だめなの」
「おれもいっしょに行くよ」
「だめ、女どうしのお話なの。お兄さまはお父さまのそばにいらして。すぐもどるから」
 止める兄をふりきって、廊下を駆けだしました。まさか、まさか、母親と息子で、そんな話を。むごすぎる!
 吐きそうでした。ハムレットさまが怪物になってしまわれたわけが、はじめてわかりました。火を吐いてでも、お母さまをお救いしたいのだ。王妃さまが毎晩()とされている、ベッドという名の地獄から。貞節と、夫婦愛と、幸福のお守りのエメラルドを、いまいちばん必要としているのは王妃さま、あなたではないですか。これは大王さまからの贈り物なのでしょう、そうでしょう? 手ばなしてはだめ。あきらめてはだめです。愛されることと、むさぼられることは、ちがいます。いやだと言っていいのです!
 ああ、でも、王妃さま、あなたがお美しすぎるからいけない。わたしは駆けながら、必死で、クローディアスさまの哀しいお心を思いました。ゆがんでいるかもしれない。でも、この長い歳月ずっと妻帯なさらずにこられたのは、ひとえにガートルードさまのためだった、そう考えればすべて符丁が合います。じつの兄を殺してまで、奪いたかった。身の毛もよだつ罪だけれど、愛してはならないひとを愛してしまうことがどんなに苦しいか、わたしにはわかります。神さま、どうか――クローディアスさまをお憐れみください。お気の毒なかた、弱いかたなのです。わたしたちを弱くおつくりになったのは、神さまではありませんか。わたしたち女の肌に殿方が吸い寄せられないように、わたしたち女が殿方の腕の中に落ちこんでしまわないように、おつくりになることも神さまには、おできになったはずではありませんか。
 廊下の角ではっと息をのみ、立ちどまりました。何か、黒い、霧のようなものが、柱の陰に立っています。腰から下が、ありません。
 逃げようと思うのに、よろよろとわたしは、引き寄せられていきました。見た瞬間、どなただかわかったのです。いま、いちばん、お会いしたいかただったから。
 大王さま。
 涙がほろほろと流れました。お会いしたかった。助けてほしかった。あなたがこの世を去られたとき、何かがこわれたのです。世界から、平安、というものが、失われたのです。あなたはわたしたちみんなの、父上でした。世界がめくれあがって吹き飛ばないように押さえておられた、盤石の重しでした。ご葬儀のときわたしたちは泣いて、泣いて、流された涙の分、世界が軽くなってしまった。そう思っていました。でも、ちがったのですね。あなたも、地上のはかないからだをお持ちだったのですね。そんなにたやすく、毒薬などで破壊されてしまうような。
 どれほど、ご無念だったでしょう。
 大王さまのお口からあふれる血の味が、わたしの口にもあふれました。完全な無音の中で、お声が直接、わたしの頭蓋にひびいてきました。――ガートルード。――この首にかけたエメラルドのせいで、わたしを王妃さまとまちがっておられるのではないでしょうか。わたしは、髪の毛がさかだつほど恐ろしく、それでも足は、進んでいきました。大王さま。大王さま。あなたさえ、生きていてくださったなら――
 ちがう。ちがった。
 ちゃんと、腰から下がありました。こんなに似ておられるとは。クローディアスさまでした。不思議そうな顔をしておいでです。「オフィーリア」と、はっきりお声に出して仰いました。「これは驚いたな。ガートルードかと思った。あれの若いころに、よく似ている」
「もったいのうございます、陛下」
「どこへ行く」
「あの、王妃さまのところへ」
「どうして」
「お話が」
「何の」
 お顔はにこにこしているのに、お目が笑っていません。
「言いなさい。わたしから伝えておこう」
「いえ、王妃さまに、直接……」
「はは、女の秘密というやつかな。わたしには言えないのか」
「いえ」
「どうした。何をふるえておる。うん?」
 たぶん、わたしの顔に、何もかも書いてあるのです。
 逃げようと思いました。今度こそ、本気で。でも、足が、足が動きません。クローディアスさまの息が、わたしのひたいにかかり、次の瞬間、わたしは胸に手を突っこまれ、乳房をもみしだかれました。
「この乳か、ハムレットを狂わせたのは」国王は、ご自分の指のにおいをかぎ、それをゆっくりとなめてみせました。そして、にやりと笑ったのです。
「父親には気の毒なことをしたな。わたしの代わりに聞いておけとは言ったが、刺されてこいとまでは言わなかったぞ。ま、そなたの父親も、ハムレットも、知りすぎるのは考えものだということだな。そなたもだ」
 くくくく、というふくみ笑いが、遠ざかっていきます。わたしは床にくずれ落ちました。
 怪物は、国王でした。

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