(11)
文字数 2,268文字
お父さまが、殺された。
ハムレットさまに。
なぜ。
案ずるな、オフィーリア、何もかもわしにまかせておけ。満面の笑みでそう仰ったお父さま。いまは、冷たくなって、わたしたちの前に横たわっておられます。明日、密葬に伏されるとか。最後の晩をそばで過ごしてよいことになったのですが、わが家へ連れて帰りたいという願いは、聞き入れていただけませんでした。
「オフィーリア。筋は、どんなだった?」
「何の?」
「芝居の」
いま、その話?
「おれは扉のところに貼りついてたんだが」兄は扉が開くと同時に飛びこんできて、誰かれかまわずはねとばしながらわたしのところへたどりつき、抱きしめてくれたのでした。そのときはもう、ハムレットさまのおすがたはありませんでした。「けっきょく外からはよく聞こえなかったし、聞こえてもわからなかったかもしれない。おまえは見てたんだろう? どうだった?」
「よく、わからなかった。ことばも古くて、むずかしかったし」
「やっぱりな。ばかはうちの家系だからな」
「いっしょにしないで」
「気になるんだ。国王陛下が中座なさったからには、よほどご不快な内容だったんだろう。だけど、陛下のほかに、気分が悪くなったりした客は誰もいない。だいたいうちの父上が、いくらうっかり者だからといって、陛下のご不興を買うような話をわざわざ上演させるはずがない」
冷静に現状を分析していたのは、兄のほうでした。そう、わたしは、お芝居のあいだじゅうあのかたのことで胸がいっぱいで、何も聞いていなかったのです。もしかするとお舞台に、なにか大変な落ち度があって、それが陛下の逆鱗にふれたのかもしれません。
そうだったとして――なぜ、ハムレットさまが、うちの父を?
錯乱というひとことでは、説明がつきません。ハムレットさまがまったく狂ってなどおられないことを、兄とわたしは知っているのですから。誰かが父上を殺して、その罪を殿下に着せているのではないか、というのが、レアティーズ兄さまの推理です。「殿下がうちの父上を殺す理由がないだろう。おまえとの結婚話を強引にすすめようとしたことが出すぎたまねだったからといって、その程度のことで人を殺 めるような殿下ではない。ぜったいにない。そうだろう?」
わたしは兄さまに、言えないことがありました。「人殺しになりたくないんだ」と仰っていた、ハムレットさまのあのお声。そして、お舞台が中止になった瞬間の、あの凍るような笑み。でも、その視線の先にあったのは、ああ聖母さま、考えたくありません、だけどあの視線の先にあったのは、うちのお父さまの背中ではなく、国王陛下の――
そんなに、新しい父上を、憎めるものでしょうか。もう人間ではないと思いました。あのかたは怪物になってしまわれた。巨大で邪悪な、竜のような怪物。一足歩くごとに、火を吐き、岩を裂き、それでもその鋼 のうろこの下の心臓は、そんなからだになってしまったご自分に悲鳴をあげている気がしました。そうして、誰のキスも、誰の生き血も、その呪いを解いてさしあげることができないのでした。
きゅうに、兄が、顔をおおって泣きだしました。子どものようにむせび泣きながら、くりかえしているのでした。ハムレットさまが、おいたわしい。おれには何がなんだかわからないが、替われるものなら、替わってさしあげたい。
兄さま。
兄の頭を抱きかかえながら、わたしも泣きました。殿下、あなたに父親を殺されても、なおもあなたに自分の生き血を捧げたいと思っている者が、ここに二人おります。あなたが狂っているのではない。きっと、何かがこのデンマークの国で、腐っているのです。
ああ、そして、もう一人。
「レアティーズさま、オフィーリアさま。このたびは」
霊安室に入ってきたホレーシオさまは、長いあいだ唇を噛んでうなだれておられましたが、やがて「いま、ちょっとよろしいですか。おたずねの件で」と石板 をとり出し、わたしたちのほうへ近づいてこられました。おたずねの件? 兄とわたしは顔を見あわせました、何も問いあわせてなどいないのだけど。ホレーシオさまはわたしたちのすぐそばまでおいでになると、唇に指をあてて、声を出さずに読むよう石板をさし出されました。ろう引きの表面にきざまれていた文字は、次のように読めました。
――ポローニアスさまは、王妃さまのお部屋で、殿下とお母上のお話を盗み聞きしておられました。そして殿下に、あるかたとまちがわれて、刺されたのです。
「もうよろしいですか」と仰ってホレーシオさまがろう引きの面を手でこすったので、文字はやわらかく消えてしまいました。「ではのちほど」と目礼して出ていかれるのを、兄が呼びとめて、
「待ってくれ。誰とまちがわれたんだ?」
ホレーシオさまは哀しい目で、かすかにかぶりを振られました。お兄さま、これは、訊いてはいけないことなの。「それならせめて教えてくれないか」と兄。「今夜の芝居に、どんな落ち度があったんだ。陛下が中座されたのは、なぜなんだ?」
ホレーシオさまは一瞬、石板と鉄筆をかまえようとなさいましたが、思いなおされたらしく、なにげないふうにこう仰いました。「べつに、落ち度など。よくあるお家騒動の話でしたよ。
ハムレットさまに。
なぜ。
案ずるな、オフィーリア、何もかもわしにまかせておけ。満面の笑みでそう仰ったお父さま。いまは、冷たくなって、わたしたちの前に横たわっておられます。明日、密葬に伏されるとか。最後の晩をそばで過ごしてよいことになったのですが、わが家へ連れて帰りたいという願いは、聞き入れていただけませんでした。
「オフィーリア。筋は、どんなだった?」
「何の?」
「芝居の」
いま、その話?
「おれは扉のところに貼りついてたんだが」兄は扉が開くと同時に飛びこんできて、誰かれかまわずはねとばしながらわたしのところへたどりつき、抱きしめてくれたのでした。そのときはもう、ハムレットさまのおすがたはありませんでした。「けっきょく外からはよく聞こえなかったし、聞こえてもわからなかったかもしれない。おまえは見てたんだろう? どうだった?」
「よく、わからなかった。ことばも古くて、むずかしかったし」
「やっぱりな。ばかはうちの家系だからな」
「いっしょにしないで」
「気になるんだ。国王陛下が中座なさったからには、よほどご不快な内容だったんだろう。だけど、陛下のほかに、気分が悪くなったりした客は誰もいない。だいたいうちの父上が、いくらうっかり者だからといって、陛下のご不興を買うような話をわざわざ上演させるはずがない」
冷静に現状を分析していたのは、兄のほうでした。そう、わたしは、お芝居のあいだじゅうあのかたのことで胸がいっぱいで、何も聞いていなかったのです。もしかするとお舞台に、なにか大変な落ち度があって、それが陛下の逆鱗にふれたのかもしれません。
そうだったとして――なぜ、ハムレットさまが、うちの父を?
錯乱というひとことでは、説明がつきません。ハムレットさまがまったく狂ってなどおられないことを、兄とわたしは知っているのですから。誰かが父上を殺して、その罪を殿下に着せているのではないか、というのが、レアティーズ兄さまの推理です。「殿下がうちの父上を殺す理由がないだろう。おまえとの結婚話を強引にすすめようとしたことが出すぎたまねだったからといって、その程度のことで人を
わたしは兄さまに、言えないことがありました。「人殺しになりたくないんだ」と仰っていた、ハムレットさまのあのお声。そして、お舞台が中止になった瞬間の、あの凍るような笑み。でも、その視線の先にあったのは、ああ聖母さま、考えたくありません、だけどあの視線の先にあったのは、うちのお父さまの背中ではなく、国王陛下の――
そんなに、新しい父上を、憎めるものでしょうか。もう人間ではないと思いました。あのかたは怪物になってしまわれた。巨大で邪悪な、竜のような怪物。一足歩くごとに、火を吐き、岩を裂き、それでもその
きゅうに、兄が、顔をおおって泣きだしました。子どものようにむせび泣きながら、くりかえしているのでした。ハムレットさまが、おいたわしい。おれには何がなんだかわからないが、替われるものなら、替わってさしあげたい。
兄さま。
兄の頭を抱きかかえながら、わたしも泣きました。殿下、あなたに父親を殺されても、なおもあなたに自分の生き血を捧げたいと思っている者が、ここに二人おります。あなたが狂っているのではない。きっと、何かがこのデンマークの国で、腐っているのです。
ああ、そして、もう一人。
「レアティーズさま、オフィーリアさま。このたびは」
霊安室に入ってきたホレーシオさまは、長いあいだ唇を噛んでうなだれておられましたが、やがて「いま、ちょっとよろしいですか。おたずねの件で」と
――ポローニアスさまは、王妃さまのお部屋で、殿下とお母上のお話を盗み聞きしておられました。そして殿下に、あるかたとまちがわれて、刺されたのです。
「もうよろしいですか」と仰ってホレーシオさまがろう引きの面を手でこすったので、文字はやわらかく消えてしまいました。「ではのちほど」と目礼して出ていかれるのを、兄が呼びとめて、
「待ってくれ。誰とまちがわれたんだ?」
ホレーシオさまは哀しい目で、かすかにかぶりを振られました。お兄さま、これは、訊いてはいけないことなの。「それならせめて教えてくれないか」と兄。「今夜の芝居に、どんな落ち度があったんだ。陛下が中座されたのは、なぜなんだ?」
ホレーシオさまは一瞬、石板と鉄筆をかまえようとなさいましたが、思いなおされたらしく、なにげないふうにこう仰いました。「べつに、落ち度など。よくあるお家騒動の話でしたよ。
王が暗殺され
、未亡人の王妃が
、知らずにその下手人に嫁ぐという
。ただ、あるかたが、ちょっとしたいたずらをしかけましてね。王殺しの場面で使われる毒薬の調合を、みょうにくわしく書き足して、役者に言わせたのです。なんでも、かぎられた方々しかご存知ない、秘伝の調合なのだそうで」