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文字数 2,375文字

 王宮の廊下で、ハムレットさまに呼びとめられました。
 バルバラったらさっと駆けだして「先に帰っております」なんて叫び、そのくせちょっと離れた柱の陰から顔をのぞかせて、お嬢さま、ヴェールをはずしちゃだめですよ、と手まねで伝えてくるのです。ぜったいあそこで盗み聞きする気です。
 するとハムレットさまがわたしの手首をつかんで、ぐいぐい引っぱって歩きだしました。歩幅が長いからわたしなんて小走りに走らないとついていけないのです。手が、手が、痛い。右に左に角を曲がって、石の壁の奥まった小部屋のようなところに来て、ここならいいかな、などとまた上の空で仰りながら、背後をうかがっておられるのだけど、気にしているのは、バルバラではないようです。そして、お手の、氷のように冷たいこと。
「手が冷たくてごめんね」と、ご自分から仰いました。「さっき洗ってきたんだ」と仰いました。「顔も洗ってきた」
 ちょっと、泣き笑いのような、お顔をなさいました。また、いつもの喪服です。お父上の大王さまが亡くなられて二か月、ずっと脱ごうとなさらないのです。そして左手の人差し指に、お父上にゆずられた印章の指輪。
「いま、少し話しても、いいかな」
 ここまで引っぱってきて、いいかなも何もありません。そしてわたしの手をつかんだまま、柱の基石に腰をおかけになったので、わたしもすとんと、座ってしまいました。
「あのね」声のふるえを押さえこむように、深呼吸をなさいました。「あのね」もう一度。そして、「こういう言い方は、卑怯だとわかっているけど、許してほしいんだ。ぼくは――ぼくは――」
 ことばを、選んでおられたのです。できるかぎりわたしを怖がらせないように。いまならわかります。あのときのわたしには、わかりませんでした。
「ぼくは、あまり、長生きできないと思う。だから――これ以上ぼくにかかわると、ろくなことがない。もう、ぼくに、かかわらないほうがいい」
 いまなら、いまならわかります。あのときのわたしには、わかりませんでした。
「ごめんね」
「あやまらないでください」
 あのかたのお目は、涙でいっぱいでしたけれど、つぎに口を開いたときは、もうお声は、ふるえていませんでした。
「ぼくは、ある人と約束をしたんだ。その約束をはたすと、たぶん死ぬことになる」
「それなら、わたしも死にます」
「だめだ」怖いお声でした。
「でしたら、修道院へまいります。修道院で一生、殿下を思って過ごします」
 はっとしたお顔になられました。「そうだね」と仰いました。「オフィーリアは、修道院に行くといい。それで、そんなヴェールをかぶっているの?」
 ちがうのだけど、ちがうのだけど、そう言われると、そんな気がしてきました。わたしには、何もしてさしあげられない。祈ることしか、できないのです。
 わたしは、自分の手をかさねて、せめてあのかたの冷たい手を、暖めてさしあげようとしました。あのかたは、されるがままになっていました。
 ――生きるか死ぬかは、問題じゃないんだ、オフィーリア。このまま生きるか否か、それが問題なんだ。
 どちらがましだと思う? いまの残酷な状況を、目をつぶってこのまま耐えていくか、それともきっぱり拒んで、暴力で決着をつけるか。つければ、天罰を受けてぼくも死ぬ。
 死ぬ、眠る、それだけだ。眠れば終わりにできる、心の痛みも、体にまつわるあまたの苦しみもいっさい消滅、望むところだ。死ぬ、眠る――眠る、おそらくは夢を見る。そこなんだ、つまずくのは。死んで眠って、どんな夢を見るのか、この世のしがらみから逃れたあとに。だからためらう。それが気にかかるから、苦しい人生をわざわざ長びかせる――
 一滴、一滴、冷たい清水が苔にしみとおるように、あのかたのことばがわたしの心にしみとおっていくのでした。いつまでもそのお声を聞いていたいのと同時に、耳をふさいでちぢこまりたい気がしました。やめて、もうやめてください、ハムレットさま。どうしてこんなに、苦しんでおられるのですか。あの夜、いったい、何があったのですか?
 わたしの痛み、わたしの不安、わたしの悲しみなど、もうどうでもよかった。わたしのからだなど何度ばらばらになってもいい、あなたを少しでも楽にしてさしあげられるのなら。貴人の武人の文人の、まなざし、ことば、剣さばき、お国の花、希望の星、あなたはわたしたちみんなの憧れでした。あの陽気でおしゃべりで、いつも笑っていたあなたは、もういないのですね。永遠に失われてしまったのですね。そうなのですね。ハムレットさま。
 気がつくと、ハムレットさまは、わたしの頬に手をそえて、静かな、抑揚のない声で話しつづけておられました。大きな手。もう、冷たくはありませんでした。修道院へ行ってくれ、と仰っていました。ぼくは傲慢だ、執念深い、野心も強い、ほかにもまだ語りつくせぬ、考えつくせぬ、やりつくせぬ罪がごまんとある。こんな人間が天と地のあいだをはいずりまわってどうなる。ぼくのような罪びとの子どもを産んでどうする。もう誰も結婚するな。結婚してしまったやつらはしかたない、一人をのぞいて生かしておいてやる。他のやつらは一生、独り身でいろ。ぼくらは悪党だ、一人残らず。だれも信じるな、オフィーリア。行ってくれ、修道院へ、さあ早く……
 そう言いながら、ひとこと、ひとことのあいまに、あのかたの唇は、わたしの肌にふれるのでした。ひたいに、まぶたに、頬のわたしの涙のあとに、耳たぶに、のどに、胸もとに。薄絹のヴェールはとっくにくちゃくちゃになって、床の上で、あのかたの足に踏みにじられていました。ぼくは死にたくない、人殺しになりたくない、と、あのかたはつぶやきつづけていました。死にたくない、死にたくないんだ、オフィーリア、ぼくは、ぼくは、死にたくない。

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