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文字数 1,467文字

 どんな傷も時がいやしてくれるというけれど、時が進まなければ、どうなるのでしょう。止まったのではありません。同じ輪の上をくりかえし、くりかえしたどり、そのたびに傷はえぐられて、深くなっていくのです。
 ――姫、お膝に乗ってもよろしいか。
 ――いけません、殿下。
 ――膝まくらも?
 ――それでしたら。
 ――ふふ、何を期待したの?
 ――存じません。
 ――お膝の奥ならなお楽し。
 ――何のお話でしょう。
 ――べ・つ・に。
 ――ごきげんですのね。
 ――ぼくが?
 ――ええ。
 ――はは、ごきげんでなくてやっていられるか、これが。母上の楽しそうなお顔を見ろ、父上が亡くなってから二時間しかたっていないのに。
 ――二か月です、殿下。
 ――そんなに? 二時間じゃないのか。
 劇の始まる直前に、包帯をして帽子を召されたホレーシオさまがお戻りになって、「オフィーリアさま」とわたしに耳うちしました。
「殿下は何か小さな、鋭利な刃物のようなものをお持ちです。それでご自分をたえず傷つけておられるのです。わたしはいくどか、お止めしようとこころみたのですが、不首尾に終わり」
 もののたとえではありませんでした。ホレーシオさまがそっと開いてみせてくださった手のひらには、いくつもの生傷がありました。
「殿下が何をなさっても、お止めしてはなりません。いざというときは、わたしがすぐ後ろにおりますので」
 二時間じゃないのか、と、わざとらしくまのびしたお声でつぶやくあなたの、握りしめたこぶしから、ゆっくりと血が糸を引いて、流れていきます。わたしは泣くこともできず、身動きすることもできず、膝の上のあなたのうつろなお顔を、抱きしめることもできません。
 舞台ですすんでいくお芝居の内容など、頭に入りませんでした。ほうけたように、二時間じゃないのか、とくりかえすあなたのつぶやきの、地獄の環。それは、じわじわと、はうように、わたしたちを乗せて同じところをめぐりつづけていました。
 そのうち、気づいたのです。
 これ以外に、殿下とわたしが、人前で会うことなど、できなかった。
 満座の好奇と、嫉妬と、嘲笑を全身に浴びながら、殿下とわたしはいま誰はばかりなく、むつみあっているのです。
 お父さまが画策し、王妃さまが夢中になっておられるわたしたちの結婚、それは、けっして実現しないことなのでした。なぜならハムレットさまは、そのときまで、生きておられないから。わたしの知らない理由で、あの世へ行っておしまいになるから。でも、いまは、この二時間のあいだはあなたは生きていて、わたしたちは観客という役を演じていて、観客であるかぎりは何もかも許されて、ともにあり、あなたのお顔がわたしの膝の上にあり、そのうつろな、どこを見ているかわからない淡い色のお目から、ゆっくりと涙があふれ出してわたしの膝にしみとおり、たとえこれ以上ふれあうことができなくても、わたしは愛されて、愛していました。

 どよめきが起こったのは、そのときです。
「王がお立ちに!」
 灯りを、灯りを、という叫びに驚いて見まわすと、国王陛下のお背中がもう、広間を出ていかれるところでした。最後に一度ふりかえり、わたしどもをぐるりとお見渡しになった、そのおすがたからは、怒気がほとばしっていました。何が起こったのかわからず、わたしがうろたえていると、ハムレットさまは身を起こして、すっとお立ちになりました。その、さっきまでうつろで無色透明だったお顔に、人間のものとは思えないすさまじい笑みが浮かぶのを、わたしははっきり、見てしまったのです。

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