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文字数 1,583文字

 オフィーリア……!
 あのとき、呼ばれなければ、わたしだって水に落ちなかったのです。本当にびっくりした。わっと思ったらもう川の中にいて、そんなに深くないはずなのに、足が宙をかき、立てなくて、わたしは水を飲みました。苦しい。息がむせて鼻が割れるように痛み、あのとき思った、人は心の痛みでは死なない、こういうじっさいの苦痛に裂かれて死ぬのです。オフィーリア、オフィーリア、と狂ったように叫んでいるのが誰なのか、しばらくのあいだわかりませんでした。思えばわたしは、お父さまやお兄さまやハムレットさま、大きな声の人にばかり囲まれて生きてきて、あのかたの叫ぶのだけは、聞いたことがありませんでした。
 気がついたら、ホレーシオさまの腕が、わたしを岸に抱えあげていました。細いようにお見受けしていたけれど、シャツの下の胸板が厚かった。あのかたもやはりデーン人の男でした。わたしの背をたたいて水を吐かせ、瞳孔をたしかめました。それからわたしをはげしく揺さぶって、「いいかげんにしてください」とどなって、むせび泣きました。
 ああ――
 わたしは、なんて、ばかだったのでしょう。死んでしまったひとのために死のうとするなんて。
 目の前に、生きて、熱く脈打っているひとがいるというのに。
 ホレーシオさまのお気持ちを、わたしは一度だって考えたことがあったでしょうか。
 このかたはいつも、ご自分のことはあとまわしにして、ただ、殿下のため、わたしたちのために、耐えて、尽くしてきてくださったのでした。このかたをよく見たことがなかった。黒髪だと思っていたけれど、こうしてまぢかで見ると、濃い栗色でした。きれいなかただったのです。あの輝くハムレットさまの陰にこのかたはいつもいらして、目立たぬよう、人に(そね)まれぬよう、ひっそりと息を殺してなすべきことをなしつつ、生き抜いてこられたのです。
 泣かないでください、ホレーシオさま。わたしは、殿方の涙に、弱いのです。
 王妃さま、ガートルードさま。「わたくし、さびしかったのよ」と仰ったおことばの意味が、はじめてわかりました。胸にえぐられて空いてしまった穴を埋めたいのではない。そのうつろから湧きだす湯のような何かが、捨てても、捨ててもなお、あふれてくるとき、もしもかたわらに飢え渇いているひとがいたら、そのひとにすべてそそぎこまずにいられるでしょうか。わたしはホレーシオさまのお顔を両手にはさんで、自分から、長く口づけました。わたしはこのかたを、選びます。お父さまもお兄さまも亡きいま、女相続人であるわたしには、自分の夫を自分で選ぶ権利があるのです。ご身分が少々低かろうと、それがなんでしょう。わたしが、守ってさしあげます。そのご人望、亡きお世継ぎに見込まれたそのご手腕、わが家の家長としてお迎えするのに、誰にも文句は言わせません。
 お願い、どこへも帰らないで。もう、お見送りは、いやなの。ずっとそばにいてください。わたしのそばに。
 オフィーリア。あなたの優しい声が、青草にしみとおっていきます。オフィーリア。そう、わたしを呼んで。一千回も呼びつづけてほしいの、わたしの名を。愛してください、ホレーシオさま、この淡く透ける夏空いっぱいのハムレットさまの思い出ごと、わたしを。それができるのは、あなただけです。わたしも、あなたを愛します。あなたを大切にします。あなたのお子をたくさん生みます。世界じゅうをちっちゃなホレーシオでいっぱいにします。そうすれば、この地上はもっと住みやすく、健やかな場所になるでしょう。ハムレットさま、あなたは、お一人でじゅうぶんです。これから千年、あなたは天空で燦然と輝きつづけるでしょう。でも、あなたという炎に焼きはらわれ、黒焦げになったこの大地に、名もない緑の苗を最初に植えるのは、わたしたちなのです。



―オフィーリア・ノート 完―
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