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文字数 1,552文字

 ヴィッテンベルクへ最初にご出立のとき、お見送りしたわたしは、まだ子どもでした。レアティーズ兄さまもほとんど同時にパリへお発ちになったから、わたしは大好きな兄さまたちが二人ともいなくなって、さびしく、つまらなく、たいくつ、というほどの気持ちでした。たしかにあのかたたちはもう仔犬ではなくて、なんだかちがう生き物になってしまっていたけれど――新しくあつらえた服の下で、きゅうに増えた筋肉と、それについていけない小さな心が、とまどってもぞもぞ動いているような、のびてしまった背を恥じているような、やたらにあちこちにぶつかってけがをしているような、そんな不思議な生き物になってしまっていたけれど、それでも、わたしの大切な兄さまたちでした。
 それが、暗く重い冬が過ぎ、雪どけのころにお母さまがいよいよいけなくなって、パリからかけつけたお兄さまもはっとするほど立派におなりだったけれど、わたしは目を泣きはらしていたからそれに感動する余裕がなくて、お兄さま、あのときは、本当にごめんなさい。そしてハムレットさまが――いやだいやだ、バルバラたちがいけないのです。わたしが宮中の祝賀会に行かなかったのは、まだとても晴れがましい席に出る気になれなかったからです、それだけ。もともと、着飾って人前に出るのは好きではないのです。あとで聞いたら、ハムレットさまはずっとそわそわなさっていて、ご自分の歓迎会なのに、途中でいなくなってしまわれたのだそうです。そんなことわたし、知りません、誓って。宮中ではご到着以来、ひっくり返るような騒ぎで、あのかたの湯浴みなさった残りのお湯を、どうするか、ということで女たちがくじを引いて、少しずつお椀に分けて持ち帰ったそうで、持ち帰ってどうするのかしら、ばかでは、ないかしら。そのくらいお美しくなって戻られたということだから、もちろんわたしもお目にかかるのが楽しみでなかったと言えばうそになるけど、胸さわぎのほうが大きくて、ぜんぜん知らないひとになっておられたらどうしよう、という。ふと見たら、お母さまのいなくなったベッドの枕もとのお花が枯れかけていて、わたしはまたちょっと泣いて、これだけ片づけておこうと思って、お庭に出ました。
 馬の声や犬の声がしていたけれど、とりつぎもなかったのだから、あのかたは裏のほうから入ってこられたにちがいありません。わたし、心臓が止まるかと思いました。
 なんというおすがた。目立ちすぎです。おしのび、という意味が、わからないのでしょうか。黒いマントこそはおっておられるけれど、ほとんど正装のままでした。お一人では、脱げなかったのでしょう。レースと真珠とサファイアがあまりにもよくお似合いでした。わが家の裏庭に、枯れたお花を捨てに出てきたわたしの前にお立ちになるには、あまりにも場ちがいでした。そしてあのかたは、そんな一点非の打ちどころのない王太子(プリンス)になってしまったご自分に、とってもこまっておられました。うろうろと四方に目をおよがせているのです。殿下、水がめの後ろに、わたしはいません。そんなに小さくはありません。
 わたしはここです。
 聖母さま、マリアさま。わたしは――嬉しい、という感情がどんなものなのか、あの日、あの瞬間まで、知らなかったのです。一歩踏みだそうとして、わたしはまっ平らな土の上でつまずき、ころびかけ、あのかたの腕に支えられました。あの腕。あの胸。わたしの知らない、男のひとでした。もう、遊び友だちのお兄さまでは、なかった。あのときわたしは、恐れていたことが起こってしまったのを知って、けっして報われない恋が始まってしまったのを知って、からだがばらばらに砕けてしまいそうな哀しみと至福の思いに、あのかたの腕の中で、わあっと声をあげて泣いたのです。

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