(3)

文字数 1,471文字

 いちばん緊張したのは、お父さまとお兄さまに知られなかったかということで、いまのところその気配はなくて、今回ばかりは、あのかたたちがちょっと鈍感で本当に助かりました。聖母さま、感謝いたします。レアティーズ兄さまも留学先のパリから帰省中だから、ぜったい聞かれたと思って泣きそうになっていたら、お兄さまは昨夜にかぎって眠れなくて、起き出してお父さまのお部屋へ行って、お二人で朝まで話しこんでおられたのだそうです。
「例のうわさが気になってね」
と仰るので飛びあがったら、殿下のことではありませんでした。そうよね、もしお兄さまのお耳に入っていたら、とっくに血の雨が降っている。
 それにしても、幽霊だなんて。それも、甲冑姿の。何人もの歩哨たちが、見たというのです。本当かしら。ノルウェーが反乱を起こして、攻めてくるかもしれないと思っているから、みんなぴりぴりしていて、それで怖い夢を見たのではないかしら。
 なんだかいろいろ、哀しい心持ちがします。もしも戦争になったら、殿下もお兄さまもご出陣なさるでしょう。ああ、やめて。子どものころはよかった、などと言うと、おばあさんのような物言いだけれど、あのかたとお兄さまは仔犬みたいにころがってとっくみあって、ふたりとも鼻血をたらたら流して、それでもお兄さまにおとがめもなく、うちのお母さまも、ハムレットさまのお父上の大王さまもまだお元気で、わたしたち子どもは安心しきって、お庭で遊んでいられました。なのに、何かが、こわれてしまったのです。
 お母さまは亡くなるときにわたしを枕もとへ呼んで、オフィーリア、あとを頼みますよ、と言って微笑まれました。おまえのお父さまと、お兄さまを、お願いね。
「わたしがですか」わたしは、息をのみました。「わたしが?」
「ええ。この家は、おまえにかかっていますよ、オフィーリア。それから」お母さまはゆっくりと息をつぎ、わたしをじっと見つめたあと、とび色の瞳を天井に向けて、つぶやくように仰いました。「たぶん、この国も」
 どういう意味だったのでしょう、お母さま?
 わたしなんてつまらない、とりえのない、あひるにブーとも言えないいくじなしの、ぐずでのろまな娘なのに?
 あれからもう、二年たちます。お母さまのくださった小さなマリアさまのおみ像に、わたしは毎晩、お祈りをしています。祈りなさい、祈るのよ、オフィーリア、とお母さまは仰いました。お母さま、わたし、お言いつけを守っています。
  めでたし 聖寵(せいちょう)()()てるマリア
  (しゅ) 御身(おんみ)とともにまします……
 お祈りの最後のほうまで来て、祈りたまえ、罪びとなるわれらのため、と、となえたとき、わたしははっと胸を突かれて、涙が出そうになりました。そうだ、わたしは、罪びとになってしまった。からだを、けがしました。ごめんなさい。そう祈って、そっと目を開いたら、小さなマリアさまはいつものとおり、かすかに笑っておられます。わたしはマリアさまをまっすぐに見て、もしもこれでわたしが地獄に堕ちるなら、堕ちよう、と思いました。怖いけれど、しかたがない。わたしは、あのかたが好きなのです。ただ、どうか、マリアさま、聖母さま、どうかどうかこれがあのかたの罪にならないようにしてください。
 お母さまのお葬式のとき、お父さまはお年甲斐もなく泣き叫んで、わしもいっしょに墓に埋めてくれと大騒ぎして、お兄さまとわたしとでお止めするのが大変でした。そうしてわたしたちが喪服を脱ぐか脱がないかというころに、ハムレットさまがヴィッテンベルク大学から初めてのお里帰りをなさったのです。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み