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文字数 3,488文字

 ハムレットさま、ハムレットさま、本当に申し訳ありません、うちの父が。兄とわたしはとるものもとりあえず、王宮へ走りました。
 今朝、ご出仕の前にいたくごきげんなご様子だったから、いやな予感はしていたのです。鼻歌を歌い、使用人たちをからかい、わたしの頬をちょんちょんとつついて満面の笑みで、片目をつぶっておみせになりました。「案ずるな、オフィーリア、何もかもわしにまかせておけ」。何が「案ずるな」でしょうか、こんなに兄さまとわたしに心配をかけて。
 マリアさま、娘の立場でこんなことを言うのはおこがましいとわかっていますけれども、正直に申します。父は、根はいいひとなのですが、悲しいことにご自分で思っているほど頭がよくないのです。ハムレットさまのお考えが三周するあいだに、ご自分は一周半して、追い越したとかんちがいして得意がっているようなひとなのです。枢密顧問官というのは、たしかに王家の内向きのご相談をうけたまわるお役目ではあるけれど、まるでお身内みたいに殿下のあとを追いまわしてつまらないおしゃべりをしたりして、ああ、もう、わが父ながらはずかしい。今度は何をしでかそうというのでしょう。
「ようするに、おまえを」兄はほぼ泣きだす寸前です。「殿下とくっつけようと」
「やめて、お兄さままで」それ、ぜんぜんありがたくありません。むしろきつい。「わたし、ふられたのよ」口に出したら、とてもみじめになりました。
「そうなのか? おれには殿下のお気持ちは、直接うかがっていないからわからないが、殿下はご自分のお立場を考えて、傷が大きくなる前に、ご自分から身を引かれたんじゃないのか。オフィーリア、殿下がかなり本気だったことくらい、おれだってうちの女どもから聞いてるよ」
 ああ、バルバラ。
「うちの父上のことだから、おまえ可愛さに暴走してることはまちがいない。だけどそこに、ご自分の出世欲もちょっと入ってるところが、おれにはなんともなさけないんだ。おれがボーッとしてて気づかなくて、父上を止められなくてすまなかった」
「いいのよ。兄さまのボーッとはいつものことだから」
「そうだな。おまえに言われたくないけど」
 兄も内心、殿下とわたしが結ばれることで、すべてうまくいくのであればと願っているのがわかりました。本当にありがとうお兄さま、大好きです。でも、ちがうの。わたしなどにはどうしようもない何かがあるの、何かは、わからないのだけど。それを思うと胸が痛くて、息ができなくなりそうでした。
 お城に着いたら、ざわざわしています。なんだか様子がいつもと、ちがう。
 今宵、宮中のお楽しみに、お舞台があるとのことでした。それでみな忙しく立ち働いて、たいまつをたくさん立てたりしているのでした。どこからか、楽師たちが絃や太鼓の皮をととのえる音が流れてきます。浮き浮きした空気があたりに満ちていて、兄さまとわたしは拍子抜けして、顔を見あわせました。どうしたものだろうか。
「オフィーリア!」
 華やかなお声がしてふりかえると、王妃さまが笑顔で、いそぎ足に歩いてこられるのでした。大輪の花のようなかた、お声までが、かぐわしい。信じられないほどお若くて、お肌も白くもちもちとして、ハムレットさまをお生みになったのはこのおからだなのだと思うと、わたしはいつも、お衣装のすそに口づけたいような気がして、いまも深々と頭を下げてごあいさつしました。
「待っていたのよ、オフィーリア。レアティーズもごきげんよう、パリはいかが? 二人ともお芝居を観に来たの? 観ていくでしょ? あなたたちのお父さまが計画してくださったのよ、うちのハムレットの気鬱(きうつ)が晴れるようにって。ポローニアスは本当に楽しいかたね。さ、こちらへ」
 わたしの肩を抱くようにして歩きだされ、わたしたちはあっけにとられてものも言えず、ガートルードさまはいつもこうなのではあるけれど、お兄さまもわたしもほとんどふだん着のまま、観劇など初耳で、なんの用意もしてきていません。
「あ、レアティーズはいやだったら、帰ってもいいのよ。オフィーリアはぜひ観ていってちょうだい。わかったわ、お洒落のことを心配しているのね。大丈夫、わたくしのを貸してあげる。そのビーズのネックレス、あなたらしくて可愛いけれど、ね、これなんてどうかしら、ほら」
 大きなエメラルドをあしらったペンダントをご自分の首からはずし、太い絹のリボンをわたしのうなじにかけてくださって、「まあ似合うこと」と、それは嬉しそうににっこりされました。
「オフィーリア、わたくしね、あの子の選んだのがあなたと知って、飛びあがって喜んだのよ。前々から、なんていいお嬢さんなのでしょうと思っていたの。あなたがわたくしの娘になってくれたら、わたくしもどんなに幸せか。ああ、言わなくてもいいわ、わかっています。もう会わないとあの子に言ったのは、あなたの本心ではないのよね。あの子の立場を考えて身を引くよう、お父さまにきつく言われて、泣く泣くしたがっただけなのでしょう。ポローニアスから何もかも聞きましたよ」
 小鳥か何かをつかまえた少女のように、目をいたずらっぽくきらきらさせて、そう仰るのです。わたしはぼうぜんと兄を見あげました。兄もとほうに暮れています。お父さまに言われて、わたしが殿下をこばんだ? その設定、聞いてません。
「あなたがた親子の滅私奉公のお心は見あげたものよ。でもね、わたくしにはデンマークの将来より、あの子が愛するひとと結ばれることのほうがずっとずっと大切なのです。オフィーリア、頼みますよ、どうぞあなたの美しさが、ハムレットの乱心のもとであってくれるよう願っています。そうであれば、あなたの優しさであの子もきっともとに戻って、何もかもまるくおさまるはず」
 歌うようにさえずりながら、まるで世界中が敵でもわたくしはこの娘を守りますとでもいうように、小さなおみ足で決然と床を踏んで、わたしを連れていかれるのです。
 王妃さま、王妃さま、そのお優しさが、いまわたしをどんな悲惨な目に遭わせているか、おわかりにならないのですか。低いささやきが四方から聞こえ、中にははっきりと耳を刺すものもあります。何でしょうあの格好は、常識のないこと――。もったいなくも王子殿下に無礼をはたらいた女、殿下のお嘆きのもととなった女として、エルシノアじゅうがわたしを非難と好奇とさげすみの目で見ているのに、王妃さま、こんなことをされては、いたたまれなくて死んでしまいそうです。わたしは助けをもとめて、肩越しに兄をふりかえりました。兄はおろおろとついてきてはいますが、「帰ってもいいのよ」というのはほぼ「帰りなさい」という意味にちがいありません。兄のためらいが、だんだんとわたしたちとの距離をひろげていくのがわかります。行かないで、お兄さま、お願い、助けて。
 ぱん、ぱん、ぱん、と、大きな拍手の音がしました。
 ハムレットさまでした。
 白いシャツ。引き裂いたあとがあり、だらしなく前がはだけています。
「母上、おみごと」よく透る声でした。「でも、そろそろ返していただけませんか。これはわたしのおもちゃですので」
 あたりは、凍りつきました。
 王妃さまはおどおどと、わたしからお手をはなしました。そんな。ここで。助けて。あのかたがつかつかと歩いてきて、あの大きなお手でわたしの肩をわしづかみにされ、神さま、あの瞬間をあのあとわたしは、いくたび夢に見てうなされたかわかりません。そのまま、二つに、裂かれてしまうかと思いました。そうはならず、あのかたはまばたきもせずにわたしの目をのぞきこんでから、噛みつくようにわたしの唇を吸われたのです。
 悲鳴とあざけりの爆笑があちこちではじけました。あのかたがわたしを突きとばしたので、わたしはよろけて、兄の腕の中に倒れこみました。わたしだけではなく、兄もがくがくふるえていました。
「ほかには? ほかには?」
 あのかたは声をうらがえして叫びながら、近くにいた女たちにつぎつぎとキスを浴びせていき、悲鳴と爆笑、悲鳴と爆笑をさんざんかきたてておいて、かろやかに駆けもどってきたと思うと、兄のひたいにご自分のひたいをぴたりと付けました。
 ――すまない、レアティーズ。帰ってくれ。
「ばあ!」と叫びながらふたたび駆けだしていかれるまでのほんの一瞬、兄のひたいをつたって流れ落ちたそのささやきは、悲痛、ということばで表せるようなものではなく、兄もわたしも、からだのふるえが止まりませんでした。
 おそろしいことに――あのかたは、正気なのです。

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