(9)

文字数 1,590文字

 お席にご案内しましょう、というおだやかな声がして、見あげると、ホレーシオさまでした。はっきりと笑顔をつくってほほえまれ、そのお顔を見てわたしは、救われた。刑場から緑の野へひきもどされた家畜のような心持ちがしました。ホレーシオさまはわたしを助け起こすと、兄に黙礼して歩きだします。静かな、静かな、影のようなかた。やけどにひんやりと乗せられた、香りのいい薬草の葉のようなかた。わたしはようやくからだのふるえがおさまって、兄に腕をあずけて歩いていきましたが、ときどきふりかえって安心させるようにほほえんでくださるホレーシオさまのご様子が、どこかいつもとちがうことが、気になりました。おすがたをおおう、かすかな薄い膜のような何か。それが、ふれるとびりりと痛む、先ほどのハムレットさまと同じ空気なのだと気づいた瞬間、ホレーシオさまが押し殺した声で、わたしたちにささやきました。
「このままあの扉からご退出ください。中庭から裏門へ出られます。お気をつけて」
 見ると、お目が、血ばしっているのです。
 走らなければ、と思い、走ってはならない、と思い、ホレーシオさまがどのようなおとがめを受けるかと胸を突かれてお顔を見ると、ホレーシオさまは兄を目でうながし、兄もわずかにうなずいて感謝をあらわしています。ああ神さま、あのまま、あのまま、行けばよかったのです、わたしさえ――わたしはただ、足がもつれて。
「オフィーリア、どこへ行くの?」
 王妃さまの無邪気なお声は、わたしたちに浴びせられた煮え湯でした。ホレーシオさまが目をつぶり、息を止められたのがわかりました。殺気。何ヤードも離れたところからどす黒い殺気が飛んでホレーシオさまを打つのが見え、ハムレットさまが近づいてこられました。ゆっくりと。ゆっくりと。ゆっくりと。
「オフィーリアは、残る。レアティーズは帰る」
 ひとことずつくぎって、言われました。そのあとの、おぞましい沈黙にたえかねて、ホレーシオさまが弱々しく「はい」とつぶやかれた瞬間、殿下の右手が宙にひらめきました。
「誰が筋書きを変えていいと言った!」
 悲鳴をあげたのはわたしではなかったと思います。わたしは息さえもできなかったのだから。うずくまって目を押さえるホレーシオさまの指の間からは血があふれて、わたしのさし出したハンカチなどみるみる赤く染まっていくのでした。
「お見苦しい(てい)を」ホレーシオさまは落ちついて立ちあがり、黒い巻き毛をかきあげ、わたしは、たしかに、あのかたがかるく舌打ちをするのを聞きました。そして、ふっとお笑いになったのです。「失礼いたしました。たぶん、目の上を切っただけです。そのうち見えるようになるでしょう。レアティーズさま、ご心配なく、と申しあげても、このていたらくでは信じていただけないとは思いますが、ここはひとまず、殿下の気まぐれにおつきあい願えませんか」
「帰れない」兄の声はかすれていました。「帰れない」
「そうでしょうね。どうしようか。では、別室でお待ちいただけるよう手配いたしましょう。なに、わたしが叩かれているうちは、オフィーリアさまに危害がおよぶことはありませんよ。殿下はそういうかたです。オフィーリアさま、このハンカチ、かならずきれいにしてお返しいたします」
 ハンカチなど、どうでもいいのです。
 お芝居は、もう、始まっていたのでした。向こうにしつらえられた小さな舞台ではなく、この広間全体が、劇場だったのです。すべての扉は閉じられ、逃げられない。筋書きとあなたは仰った、ハムレットさま、その筋書きの中で、わたしはいまから、何を演じさせられるのでしょうか。泣き女? 道化? いけにえの羊? 教えてください、わたしに台詞を、名前をください。見えない炎が床をはい、壁をなめ、天井をつつみ、わたしは、劇場という名の煉獄(れんごく)のただなかに、たったひとりで立っていました。

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