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文字数 953文字

 あのかたが、入ってきた。
 いつかはこういう日が来ると思っていました。ただ、今日とは思わなかっただけ。明け方でした。あのかたは全身、朝露に濡れていて、髪から苔と鉄の匂いがして、最初から最後まで泣いていて、唇に血の味がしました。お口の中を、切っていた。どうしてだかわかりません。
 オフィーリア、と呼んで、眠っていたわたしを起こされて、あとは言葉にならず、ただただはげしくお泣きになるので、わたしはびっくりして、とにかくあのかたをおなぐさめしたかったのです。そのあとも立てつづけにいろいろびっくりしたけれど、何もかもがあっというまだったので、わたしはまだちょっと寝ぼけながら、こういうものなのね、などと思っていたら、いよいよあのかたが入ってきて、あまりの痛さに完全に目がさめて、うちのバルバラが、お嬢さま、痛いですよ、痛いの痛くないのなんてもんじゃありませんなどと得意げに教えてくれたのは、本当だったと思いました。もちろん暖かいようなやるせないような、だいたい想像していたような感慨もあったけれど、わたしはぎゅっと目をつぶって、ひたすら一つのことを心でとなえていました。――殿下、まだですか。まだですか。もう無理。痛いです。
 あのかたの身に、何か大変なことがあったことは、わかりました。おいたわしくて、わたしも涙がこぼれました。わたしなどでよければ、どんなにしてくださってもかまわないのです。ただ、おはてになるときに、「父上!」と叫ばれたのは、あれは、何だったのでしょう。さすがにちょっと、わけがわかりません。
 ハムレットさまのお手はとっても大きくて、肩幅が広くて、髪の毛がふわふわでした。いつもおそばで見ていたのに、このひとの輪郭を手でなぞったのははじめてだな、と思って、きゅうにこの大きなひとがたまらなく可愛く、いまはすっかり静かになってしまったひとの、こめかみのところが汗に濡れているから、キスをしてあげたいな、と思って、姿勢を起こそうと思うけれど、ハムレットさまの腕ががっちりとわたしを抱えこんでいて、まるで身動きができないのであきらめて、そっとお鼻にさわろうとしたら、すう、すう、と聞こえてきたのは、寝息なのでした。
 こういうものなの? バルバラ。
 わたしの唇にも、ハムレットさまの血の味がしました。

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