(13)

文字数 2,857文字

 胃の中のものをぜんぶ吐いて、冷たい床の上に倒れているわたしを、心配した兄がさがしに来て見つけてくれるまで、どれほどの時間がたっていたのでしょう。わたしは高熱を出しました。うなされながら歌をうたい、さまざまなことを口走り、悲鳴をあげ、起きて吐き、吐くものがなくなっても胃がうらがえるまで吐き、泣いて、草や花の名前をつぶやきつづけていたそうです。これはローズマリー、思い出の草。これはパンジー、もの思いの花。夢の中でわたしは、お母さまに見守られて、川辺で遊んでいました。花の名前を教わり、お歌やお話を教わり、世界は知らないことに満ちていて、そのすべてが美しく、輝かしいのでした。しきりにお父さまを呼び、王妃さまはどこ?と叫んでいたそうです。そしてわが身を爪でかきむしるので、手を包帯でぐるぐる巻きにされてしまいました。おやすみなさい皆さま、おやすみなさい、皆々さま、おやすみなさい、おやすみなさい、おやすみなさい。スミレを摘むと、わたしの手の中で、あっというまにしおれていくのです。
 ようやく目がさめて、はじめに見たのは、わたしのベッドにつっぷして眠っているバルバラの横顔でした。バルバラの頬にも、涙のあとがありました。
 バルバラが呼んだので、レアティーズ兄さまがおいでになりました。わたしのひたいをなでて、つらかったな、と仰いました。わたしはあんなに泣いたのに、いまもまだ、目を開いているだけで、湧き水のように涙があふれて落ちるのでした。なつかしいわたしの部屋。バルバラ。お兄さま。兄の明るい髪の毛は窓越しの光に透けて、ほとんど真っ白になってしまったように見えました。
 わたし、何か言ってた?と訊くまでもありませんでした。わたしはうわごとで、からだのなかにたまっていた苦しみを、文字どおり、みんな吐いてしまっていました。
 バルバラが泣きながら、自分が男なら、町のまん中であのけだものの心臓に食らいついてやると言いました。でも女だから腕力も、権力もないからくやしいと言いました。兄はうつむいて、「おれには腕力はあるけど、権力がないから同じだ」と言いました。黒を白と言い張れるだけの、票数。それが、権力だと。デンマーク国王は貴族による選出制です。わたしたちが変えられるのです。でも、誰も、変えない。
「証拠がない」と兄。「ハムレットさまはおそらく、おまえと同じく、大王さまの霊のお声を聞かれたんだろう。だがそれがなんの証拠になる? 国王が芝居を観て青ざめたのは、自分のしたことをそのまま舞台の上に見たからだ、まちがいない、だが腹が痛くなっただけだとしらを切られたらそれまでだ。王妃殿下のおからだのことも、王妃さまご自身が訴え出ないかぎり、人の夫婦生活に立ち入るなと言われるのが落ちだろう。おまえも――」兄の歯ぎしりがはげしすぎて、舌を食い切るのではないかと思いました。「あの下郎、教会の聖域の中だろうと、のどぶえをかき切ってやる――」
 泣かないで、お兄さま。お兄さままで、憎しみの竜にならないで。
 祈ろうとして、また涙が流れました。わたしはもう、祈れないのでした。わたしは、血と、塩水と、脂肪をつめた皮袋になってしまった。そこに何本か管がとおっているだけなのです。何も、感じません。
 人の訪れた気配があって、バルバラが涙を拭きながら部屋を出ていきました。そして戻ってきて、ホレーシオさまですよ、と告げました。若殿に直接、お目にかかりたいそうです。
 ホレーシオさまが届けてくださったのは、ハンカチと、いちごでした。
 ハンカチは――どうしても血のあとが取れなかったので、と、真新しいものを贈ってくださいました。オフィーリア、と、わたしの名前を、縫い取らせたものでした。いちごも、嬉しかった。遠い南国では、ひと夏に何度も、いちごを収穫すると聞きます。本当にそんな国があるのでしょうか。わたしたちの土地では一度だけ。でも、淡くて短い夏の、いつまでも暮れずにしらじらと燃える日の光に照らされて、小粒でも濃い、いちごです。
 兄の指がわたしの唇へはこんでくれたいちごの味を、わたしは生涯、忘れることはないでしょう。それは、わたしの、お清めでした。世界にはまだ、こんなに清らかなものが残っていた。わたしは顔をおおって泣きました。兄はいつまでも、わたしの髪をなでていてくれました。
「そういえば、さっきいっしょに渡されたお手紙は、何だったんですか?」とバルバラ。
「これか? これは、剣の試合の申し込みだ、殿下からおれへの。殿下のご本復を祝って、御前試合が催されるそうだ」
 国王じきじきのご提案なのだそうです。殿下のご乱心がおさまったことを宣言し、また、殿下と兄さまのあいだにわだかまりのないことを広く示し、つまりはわたしたちのお父さまの死がたんなる事故だったと知らしめて、王家の面目を保つための催しなのでした。何もかも、なかったことにしようというのです。
「あのラッキョウが言うには」お兄さま、ホレーシオさまに失礼よ。「殿下からのご伝言で、『試合中は気をつけてくれ。よく防いでくれ』と。だからおれも『殿下こそ』と申し上げたんだ」兄さまのお声がひどく穏やかに澄んでいるので、わたしはふと、不安になりました。
「どういう、意味ですか?」とバルバラ。
 レアティーズ兄さまは、黙ってほほえんでおられます。
「殿下も水臭い」やがて、小声で言われ、両手を組んでひたいにあてました。「だいたい、剣の腕はおれのほうが上だ」さらりと言われました。「お一人で――行かせてたまるか――」
 何を仰っているのでしょう。
「バルバラ、おまえが男だったら、どうする。おまえが殿下だったらどう考える。これはもしかして、最初で最後のチャンスだと思わないか?」
「ええ、でも――」バルバラがみるみる青ざめていくのがわかりました。「きっと警護は厳重でしょうし、それに、試合用の剣は」
「そう、ふつうは刃をひきつぶして、かすったくらいでは傷がつかないようになっている。だからもしおれたちのどちらかが血を流せば、見とがめられ、剣をあらためられてしまう」
 バルバラが小さく悲鳴をあげました。殿下は、つぶしていない、切っ先を研いだ剣をお使いになろうとしているのです。兄さまも。きっと、国王は最初からそんなことはお見通し。頃合いを見はからって剣をあらため、謀反の疑いありと声をあげるつもりなのでしょう。その前に倒す。そんな離れわざができるものでしょうか?
 レアティーズ兄さまはもう一度ほほえんで、バルバラをふりかえり、わたしが聞いたこともないような優しいお声をおかけになりました。
「ごめんバルバラ。これでたぶん、結婚できなくなった」
 ええ?!とわたしが叫ぶのと、バルバラが叫ぶのと、同時でした。どうせ無理だと思ってましたもん、と、バルバラが兄の胸をたたいてわあわあ泣くのを見ながら、わたしはぼうぜんと思いました。どうして男のひとたちは、すぐあやまるのでしょう。あやまるようなことをしなければいいのに!

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み