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文字数 3,516文字

 レアティーズ兄さまがお呼びだと知らされて、わあ、来た、と思いました。お部屋に入る前にわたしはちょっと目をつぶって、深呼吸をしました。もう、開きなおるしかない。しらを切りとおすのです。それしか、あのかたをお守りする方法がありません。わたしはうんとずうずうしくなって、お兄さまこそどうなのですかと言ってやろう。そうよ、毎晩、ちがう女の人の匂いをさせて帰ってきて、わたしが気づかないとでも思っているのでしょうか。わたしはふだんは、あひるにブーとも言えないおくびょうな娘だけど、お兄さまとの口げんかなら、たぶん生涯で、勝率五割です。
 でも、扉の向こうにあったのは、わたしの想像していたものすごく怖いお顔ではなくて、またあの雨に打たれた仔犬にもどってしまったお兄さまでした。
 おねしょを見つかったわけじゃあるまいし、何をこんなになさけないお顔をしておいでなのだろう。泣くに泣けない、という表情でした。ぱっと立ってつかつか歩いてきて、ご自分の髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜました。これは、かなり深刻。
「聞いた? 聞いてない?」
 兄は、話がへたなのです。
「何を?」
「ああ、聞いてないんだ」椅子を引いて座りこみ、顔をおおいました。お願い、お兄さま、順序だてて話して。
 でも、兄の口から出た言葉は、わたしの頭の中も、一瞬で真っ白にしました。
 王子殿下、ご乱心。
「うそだよな?」
 ああマリアさま、この場合、なんと言っておけばいいのでしょう。ハムレットさまのあのただならぬご様子、何かはわからないけれども大変な秘密をかかえておられて、そのお心の乱れが、人目につくほど表れてしまったのかもしれません。でもわたしは、その秘密のなかみを知らないのだし、うかつなことは言えない。「うそだと、思いたいけど」と言いました。われながら、うまいことばを思いついたとちょっと思いました。
「だよな。あのかたにかぎってと、おれも思うんだ。だけどあのかたは頭がよすぎるし、あのご気性だろう。誰かがうっかり逆鱗にふれて罵倒でもされて、それでこんなうわさがたったんじゃないかと」
 兄は、殿下のおみ足になら頭を踏まれてもかまわないと思っているほど、ハムレットさまを尊敬しているのです。兄のいいところは、自分がうすぼんやりしていることをちゃんと自覚していることで、そこは、わたしと同じです。悲しいけれど、しかたがない。だいたい、ハムレットさまの頭の回転についていけている人は、たぶんこのエルシノアの中に一人もいなくて、お母さまの王妃殿下も、あの子が何を考えているかさっぱりわからないとお嘆きだし、そうだ、たった一人、こないだから殿下のお側近くにお仕えしているホレーシオというおかた、ヴィッテンベルクで知り合われたご学友だそうで、同じデンマークのかたではあるけれど、ご所領も地方の小さな土地、本当なら王宮にあがるご身分ではないところを、王子殿下の格別のお引き立てでお仕えしているので、はじめはずいぶんと陰口も飛びかったものだけれど、あの誠実でつつましいお人柄のために、いまは誰一人あのかたを悪く言う者はなく、かえって殿下の人を見る目をほめたたえて、一度、殿下がホレーシオさまを連れてうちへお見えになったことがあって、殿下はいつものとおりずっと冗談をとばしてふざけておられて、話の行く先がころころ変わり、きゅうに、アレクサンダー大王が土の下で粘土になって、その粘土がビール樽の穴をふさぐ栓になって、などというわけのわからない詩をお作りになりだしたら、ホレーシオさまはすぐさま韻を踏んで最後の一行をつけ足して、お二人で爆笑なさっているのだけど、そのお顔つきから、これはわたしのような娘が聞いてはいけないご冗談らしいということはわかっても、どうしたらいいかわからず、隣に立っているお兄さまをぬすみ見たら、お兄さまもぽかんとしていて、ああやっぱり、うすらばかはうちの家系なのだと、わたしはなさけない気持ちであきらめたのでした。お二人がお帰りになってから、レアティーズ兄さまはよほどくやしかったらしくて、なんだあのラッキョウ野郎、おれのほうがずっと前からハムレットさまを存じあげているんだぞなどと言って、腹立ちまぎれにそのへんの切り株を蹴とばしたりして、あれは、そうとう痛かったと思います。
 いまは、その話ではなくて。
「何か聞いてないのか?」
 わたしは胸に手をあてて、首を横にふりました。
「思いあたることは?」
 もう一度ふりました。半分ほんとうで、半分うそ。ごめんなさい、お兄さま。
「いいかオフィーリア、おまえの兄さんはばかだけど、おまえが思ってるほどばかじゃないんだ。おまえがハムレットさまを好きになっても、そんなの当然だと思っていたさ、おれだってあのかたが好きだもの。そしておまえはこの国でいちばんいい女だ、おれの妹だからな、それでも、やっぱり、かわいそうなことにおれの妹だから、どう考えても殿下とは、つりあわないだろう」
「わかってます」
「あきらめろ」
「あきらめてます」
「じゃ、お会いしてないんだな」
「してません」
「オフィーリア」兄は目に憐れみをいっぱい浮かべて言いました。「うそがへたすぎる」
 そうなんです。
「兄さんはおまえを責めてるわけじゃない。もちろん兄としては複雑だが、いまはそんな話をしてる場合じゃない。怒らないから言ってくれ。おまえ、もしも殿下が本当にご乱心だとしたら、原因は何だと思う? 胸に手をあてて考えろ。あててるけど」
「それは――」
「それは?」
「お父上の亡くなられたのが、ショックで」
「だよな。それと?」
 わたしは口ごもりました。「それと、やっぱり、その、お母上の――」
「ご再婚が早すぎた件だよな。おれもそう思うんだよ」兄は深いため息をついて、明るい色の髪の毛をまたくしゃくしゃとかき回しました。「ひと月半しかたってなかったからな。うちの父上なんか見ろ、母上が亡くなって二年になるけど、なんだかんだ言っていまだに独り身だ。だけどおれたちだって、もう子どもじゃない。親の事情をわかってやろうとしたっていい歳じゃないか。たしかに叔父上というのは、お父上のじつの弟君というのは、新しい父親としては近すぎていやなものかもしれないけど、ハムレットさまのあの嫌いかたは、尋常じゃない。嫌って嫌って嫌いぬいているとでもいうのか。おれはときどき、ぞっとすることがあるよ。クローディアスさまの、どこがいけないというんだろう」
 健康と正直が、服を着て歩いているようなうちの兄には、ハムレットさまのあの孤独なお目の色を、説明したって通じるわけがないと思いました。これ以上ぼくにかかわるなと仰ったときの、あのうつろなお声。父上!というあの叫び、人殺しになりたくないんだというあのつぶやき。何かがわたしの中で、ゆっくりと渦を巻きはじめ、その渦の中心にぽっかり空いた闇を、のぞきこむ勇気は、まだ、ありませんでした。ひざがふるえて、わたしも腰をおろしました。ハムレットさまがその闇から、わたしを遠ざけようとしてくださっているように、わたしもこの純朴な兄を、けっしてけっして、巻きこんではならない。
「わたし、知らないわ、何も」ばかのふりなら、得意です。「わたしにはたあいもないお話しか、なさらないんですもの」
「どんな?」
「だから、その、優しいお言葉、というか」
「愛してるとか、……愛してるとか、愛してるとか?」
「え、ええ」
「したんだな、そういう話を!」
「怒らないって仰ったじゃない」
「怒ってない」あんなにかきむしったら、頭がはげになってしまうと思いました。でも、次の瞬間、わたしも、後頭部をなぐられたような気がしました。
「おまえのせいだという話になってるんだ、オフィーリア。ハムレットさまのご乱心は、おまえが殿下につれなくしたせいだと」
 なんですって。
 なんですって?
 寝耳に水とはこのことです。誰が、そんな、でたらめを。わたしがハムレットさまにふられつつあるのはほぼ確定だとしても、その逆は、ありえない。
 わたしは、声もなく、首をふりました。兄は、だよな、だよな、とくりかえしています。ありがとうお兄さま、わかってくださって。大好きです。
「そんなうわさ、もう広まっているの?」
「かなり」
「どうしよう、お父さまに知れたら」とっさに浮かんだのは、そのことでした。あのおっちょこちょいのお父さまがお知りになったら興奮して、何をしでかすかわかりません。「どうしよう」
「ちがうんだ、オフィーリア」レアティーズ兄さまは、ほとんど泣き声でした。「落ちついて聞いてくれ。そのうわさをふりまいて歩いてるのは、父上なんだ」

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