最終話 何処へ
文字数 5,917文字
ただ、ただ、庁舎へ。
あれほど見上げていた空へ視線を向けることもなく、赤い岩山を振り返ることもなく、庁舎への道を下りていく。大きな弧を描きながら続く緩い坂は、少しでも早く辿り着くように背中を押してくれているかのようだ。
「下りだからと言って油断しないように。転倒する危険があるからな」
タイミング良く、背中越しに浅野さんから声が掛かった。
「こんな所で足を挫いたりでもしたら、悔やんでも悔やみきれないぞ」
先頭を行く係長も、殿を務める俺たちへ注意を促す。
拠点を出てから、もう一時間以上が経っている。
「サクラ、大丈夫? 疲れてない?」
「はい、へいきです。サクラ、げんきね」
休憩も取らずにきたが、彼女はその言葉通り、疲れた様子も見せずにしっかりと歩いていた。
隣に彼女がいてくれるだけで、俺も疲れを感じない。
「ここで少し休憩をしよう」
下り坂から平坦な場所に出たところで係長が立ち止まり、振り返った。
「座ると脚の疲れを一気に感じるから、立ったままの方がいいぞ」
「いや、休憩を取らずにこのまま進みましょう」
係長の言葉へ被せるように、別班のリーダーが言う。
「今は一刻も早く、先行する班に追いつくべきです。歩く速度を落として水分補給をする程度にして、先を急ぎませんか?」
確かに、彼の言う通り、休む時間さえ惜しい。
「しかし、無理をすると後で脚に響くぞ」
「もう半分ほどの距離は進んできたと思います。このまま行けます」
「他のみんなはどうだ?」
ここにいる十一人の目が係長を見つめる。
「分かった。それじゃ、このまま行こう。水は貴重だけど、脱水症状を行さないためにもこまめに飲むように」
拠点を出て二時間ほど歩き、ようやく先行した班の後姿が見えるようになった。向こうも気付いたようで手を挙げて合図してくれたが、もちろん立ち止まって待つことはない。
転移が起こることを誰もが信じて、一分一秒でも早く庁舎へ着くことを目指しているのだ。
仲間たちの姿が見えたことで、誰かが口に出さなくても俺たちの歩く速度は自然と早くなった。
もう少し。もう少しで合流できる。
初めに気づいたのはサクラだった。
歩みは止めず、何か不安そうに周りを囲んでいる岩山を見上げている。
「どうかしたの?」
「ที่รัก、また――」
彼女の言葉を聞き終える前に異変を感じ取った。
地面が揺れ始めている。
「みんな、気をつけて!」
前の集団からも大きな声が聞こえた。
その場にしゃがみ込みながら、岩山の斜面に目を配る。
さっきの地震ほど大きな揺れは感じず、落石の心配もなさそうだ。
「もう大丈夫だよ」
頭を抱えてうずくまったままの彼女の腕を取って立たせる。
最初に地震が起きた時もかなり怖がっていたけれど、いつもの強気な彼女が嘘のように、これだけは苦手らしい。
しかし、今のは余震なのだろうか。それとも……。
「先を急ごう!」
再び、前から聞こえてきた大きな声を合図に、俺たちも歩き出した。
どうか間に合ってくれ。
再出発してから十五分ほど歩いただろうか。
「おいっ! 庁舎が見えたぞぉ!」
先頭から歓声が波のように伝わってきた。あちこちで安堵と喜びの笑顔が見える。
よかった、間に合ったんだ。
隣を歩いていたサクラを思わず抱き寄せた。
「おばさん、みんな、まってます」
彼女も目を輝かせながら、少女のような満面の笑みを見せて応えてくれる。
足取りも心なしか軽くなった。
と、急に後ろでうめき声が聞こえてきた。
「あっ、痛っ……」
「どうしたんですか!?」
「いや、庁舎を見ようと背伸びしたら、足がつってしまったみたいで……」
別班のリーダーが顔をしかめて腰を折っている。
「下り道は思っている以上に脚へ負担が掛かっているからな」
係長が彼を座らせて右足の靴を脱がせ、土踏まずへのマッサージとふくらはぎのストレッチを始めた。
「もう少しだ。肩を貸すから頑張れるだろ?」
「大丈夫、歩けます。すいません、迷惑かけちゃって」
「気にしないでいいから。お互い様だよ」
俺の後ろに係長が回り、彼をサポートしながら庁舎へと向かった。
歩を進めるごとに庁舎が視界を占めていく。
この建物を目にするだけで、こんなにも安心感を得られるとは……札幌にいたときには想像もつかなかった。
ここに残り、待ってくれていた人たちもエントランスの前に出て来ている。
みんな手を振りながら、何か大きな声をあげていた。表情も分かるくらい近づいた頃には、それが「お帰り!」「待ってたぞー」と聞きとれるようになった。
光岡局長を先頭に大勢の人たちが出迎えてくれている。もちろん、佐伯さんの顔も見えた。
これに似た光景っって――あぁ、駅伝のゴール前みたいだな。そんなことが頭をよぎった、その時。
「うわぁっ!」
「いったん止まれっ!」
この地に来て三度目の地震は、立っていられないほどの大きな揺れを伴って突然やってきた。あちこちで悲鳴と怒号が飛び交っている。
しゃがみこんだサクラの肩に手を掛けながら膝をつく。視界の隅に、庁舎の中へ避難していく局長たちの姿が映った。
不確定要素だったとはいえ、こんなにも地震が起きるなんて。胸奥に湧き上がる黒い靄 が、まるで空まで拡がっていったかのように薄暗く感じる。
「急いで! 庁舎まで走るぞ!」
揺れが収まるのを待たずに指示の声が上がった。
得体の知れない不安を感じたのは俺だけではないようだ。
彼女の体を起こし、ふらつく足元を注意しながら身体を支えて前へ進む。
庁舎まで数百メートル。
地面が揺れる中では思うように走れず、もどかしい。
大丈夫、まだ大丈夫。
あの音は聞こえてこないし、揺れも収まってきた。もう庁舎までは百メートルもない。
必ず、間に合う。
自らを叱咤激励し、脚を動かす。庁舎へ辿り着いても、そこがゴールではないはずなのに、今はとにかく庁舎の中へ入ることだけを考えていた。
「加瀬君! 係長、早く!」
声の方へ顔を向けると、ホールの中へ入っていた佐伯さんと割れた窓越しに目が合った。
やっとたどり着いた。
立ち止まって佐伯さんに笑顔で右手を挙げ、エントランスへ向かう。
サクラに左手を差し出し、手を繋いで引っ張るように歩き出すとすぐに、低い地鳴りのような音と共に下から突き上げられ、体が一瞬浮いたように感じた。
またか!
バランスを崩して尻もちをつくように転んでしまった彼女の身体を引き起こして立たせる。
「危ないっ!」
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
背中から突き飛ばされ、サクラと一緒に転んでしまった体を起こし、振り返ると、佐藤係長がうつぶせに倒れている。
その背中には一メートル角はあろうかという大きなコンクリートパネルが乗っていた。
何だ、これは――。
揺れる大地の上をゆっくりと係長の元へ近づく。口から多量の血が流れだしていて、目を閉じている。
「……か、係……長……」
もう、俺の声なんて耳には届いていないのだろう。身動き一つすることなく、静かに横たわっていた。
このパネルは外壁のようだ。地震の揺れで剥落してきたのだろう。係長は俺たちを助けるために……。
遠征隊のほとんどは既に庁舎内へ入っていたが、突然、時間が止まってしまったかのようにこちらを振り返って誰も動かない。
サクラは口の前で両手を組んで呆然と立ち尽くしている。
その横を、声も出さずに涙を流しながら、佐伯さんがこちらへ近づいてきた。
「加瀬君……」
「すいません、俺のせいで……」
「誰のせいでもないよ。あなたたち二人が同じ目に合っていたかもしれない。でも……みんな、無事に……戻ってきて、欲しかった」
切れ切れにそう言うとしゃくりあげるように泣き始めた。
また大切な人を目の前で失ってしまった。
こんな現象 に巻き込まれてからも、いつも変わらず前向きで、色々と相談にも乗ってくれた佐藤係長……。あなたの言葉にどれほど救われたことか。
「中へ入ろう。また剥落するかもしれない。ここは危険だ」
浅野さんに肩を叩かれ、我に返った。佐伯さんとサクラを促してホールへ入る。
あれほど待ち望んでいた庁舎なのに、足は重かった。
ホールの一角では、田町副市長と光岡局長を中心に何やら話をしている。
この後で起こりうるだろう、三度目の転移について相談しているのだろうけれど、何かもうどうでもよくなってしまった。
「しっかりして、加瀬君!」
腑抜けた俺を見透かしたかのように、泣きはらした顔で佐伯さんが言った。
「あなたの意見を聞いて、みんなが希望を持って動いてきたのよ。係長の分もあなたがしっかりしなきゃ!」
確かに佐伯さんの言う通りだ。
この後に転移が起こったからと言って、元の世界へ還れる保証はない。今よりは条件がいい場所へ転移すると予測はしているが。
ケムトレイルが起きてから既に三時間以上が経っている。
いつ始まってもおかしくない。
突然、サクラが背負っていたバッグの中から何かを探し始めた。と思ったら、外へ向かって駆け出していく。
「どこに行くの!? 危ないよ!」
彼女の背中へ叫んだけれど振り返らない。慌てて後を追いかけた。
エントランスを出ようとしたとき、忘れもしないあの音が聞こえてきた。
「サクラっ!」
彼女はすぐそこにいた。
拠点で使っていたカーテンを佐藤係長の体へ掛け、お祈りをしている。
「サクラ、すぐに戻って! またどこかに飛ばされるよ!」
駆け戻ったサクラを抱き止める。
「ありがとう」
「気遣ってくれて、ありがとう」
俺の後を追いかけてきた佐伯さんも、彼女へお礼を言った。
「さぁ、すぐに転移が始まるから、もっとホールの奥へ行こう」
そう言った後に係長の方へ振り返り、一礼をした。
そうしている間にも、徐々に高い音となり、圧が高まっていく。
「みんな低い体勢を取って! 近くに掴まるものがあれば身体を支えてください」
田町市長の声が聞こえる。
今までと同様、耳に感じる違和感が高まった後、急激に上昇し始めた。
同時に、床面へ向かって見えない力で押し潰される。
数秒後には急降下するような浮遊感が襲ってくるはず――ところが、何かが崩れるような音と共に床が大きく傾いた。
「な、何だ!?」
「うぉっ!」
「きゃぁっ!」
あちらこちらで叫び声が上がり、滑り台のように傾いた床を何人もが滑り落ちていく。
床が傾いたまま、庁舎は急降下を始めた。
「ที่รัก!」
「あっ、落ちちゃう!」
身体の軽い女性二人が、降下によって浮き上がるようになったのか滑り落ちそうになる。咄嗟に右手を伸ばしてサクラの手首の辺りを掴む。サクラも手を伸ばして、隣の佐伯さんの腕を掴んだ。
近くに掴まる所がなく、二人を支えられずに俺も一緒にゆっくりとずり落ちていく。その先にはガラスが割れてなくなった窓が待ち構えている。
あそこから落ちたら……考えたくもない。
左の掌と頬を床に押し付けて、少しでも摩擦で留めようとした。サクラも佐伯さんも、必死に床へ貼り付くようにしている。
「二人とも頑張って!」
声を掛けている間も、さらに降下は続いていた。それに合わせて、俺たちも少しずつ落ちていく。
前回は降下を始めてから数秒で新たな地へ着いたはずなのに、気のせいか、今までよりも長く感じる。
頼む、早く止まってくれ。
突然、衝突したような反動を受けて庁舎が止まり、俺たちの体が跳ね上がってから床に打ちつけられた。
廻りからもうめき声が聞こえてくる。
何処かへ着いたのか?
それにしても、今回はどうも様子が違う。床が斜めになったままということは、庁舎そのものが傾いているのか。
「大丈夫? 怪我はない?」
窓まで一メートルほどの所で座り込んでいる二人に話し掛けた。
「はい、だいじょうぶです」
「加瀬君、ありがとう」
立ち上がり見回すと、大きな怪我をした人もいないようだ。
「加瀬君の言ったとおり、やっぱり転移が起きたんだね」
「でも、様子がおかしかったと思いませんか? こんな風に止まることなんてなかったのに」
山の斜面に立っているような、何か不思議な感覚だ。
「今度はどんな所なんだろう」
「外に出てみましょう」
サクラも一緒に三人で、新たな地を見に行った。
「また、赤い大地か……」
目の前には見馴れた色が拡がっている。
「でも、あそこに見えるのは何か植物みたい」
佐伯さんが指をさす方には、確かに木のようなものが見える。前回よりも条件が良くなったと言うことか。
「そら、あおです!」
サクラの驚いた声を聞くまで、すっかり忘れていた。そうだ、これが懐かしい空の色だ。
青い空を見上げたときに庁舎が目に入り、その姿を見て納得した。
六階辺りから上の部分が、なくなっていたのだ。
建物にダメージがあると聞いていたけれど、あの度重なる地震を受けて転移の途中で折れてしまったのだろう。それで斜めになったまま落ちてきた、というところか。
下層階に避難しておいて正解だったんだな。
不意に目の前を何かが横切った。
「加瀬君! 見て……」
小さな黒い影が――ハエ?
「加瀬君……こっちへ、来てよぉ……」
佐伯さんの涙声が聞こえる。
これって……。
立ち尽くす佐伯さんの隣へ行く。
その視線の先にあるもの。俺も知っている。
エアーズロックだ。
「私たち、還ってきたんだよね……」
「どうやら、そうみたいですね……」
「何それ? もっと喜べばいいじゃない」
「佐伯さんだって、はしゃいでいるようには見えませんよ」
サクラの方を振り返り、笑顔で大きくうなずくと、また満面の笑みで飛びついてきた。
「でも、今って何年なんだろう?」
「何年だっていいじゃないですか! こうして還ってこれたんだから」
泣き笑いの佐伯さんへ向き直る。
「それより、今度はここからどうやって札幌へ帰るか考えないと」
「うーん、ここへ還ってきたことに比べれば、ちょっとだけ簡単かもね」
きょとんとするサクラの左手を握り、笑みを浮かべながら庁舎へと向かった。
―了―
あれほど見上げていた空へ視線を向けることもなく、赤い岩山を振り返ることもなく、庁舎への道を下りていく。大きな弧を描きながら続く緩い坂は、少しでも早く辿り着くように背中を押してくれているかのようだ。
「下りだからと言って油断しないように。転倒する危険があるからな」
タイミング良く、背中越しに浅野さんから声が掛かった。
「こんな所で足を挫いたりでもしたら、悔やんでも悔やみきれないぞ」
先頭を行く係長も、殿を務める俺たちへ注意を促す。
拠点を出てから、もう一時間以上が経っている。
「サクラ、大丈夫? 疲れてない?」
「はい、へいきです。サクラ、げんきね」
休憩も取らずにきたが、彼女はその言葉通り、疲れた様子も見せずにしっかりと歩いていた。
隣に彼女がいてくれるだけで、俺も疲れを感じない。
「ここで少し休憩をしよう」
下り坂から平坦な場所に出たところで係長が立ち止まり、振り返った。
「座ると脚の疲れを一気に感じるから、立ったままの方がいいぞ」
「いや、休憩を取らずにこのまま進みましょう」
係長の言葉へ被せるように、別班のリーダーが言う。
「今は一刻も早く、先行する班に追いつくべきです。歩く速度を落として水分補給をする程度にして、先を急ぎませんか?」
確かに、彼の言う通り、休む時間さえ惜しい。
「しかし、無理をすると後で脚に響くぞ」
「もう半分ほどの距離は進んできたと思います。このまま行けます」
「他のみんなはどうだ?」
ここにいる十一人の目が係長を見つめる。
「分かった。それじゃ、このまま行こう。水は貴重だけど、脱水症状を行さないためにもこまめに飲むように」
拠点を出て二時間ほど歩き、ようやく先行した班の後姿が見えるようになった。向こうも気付いたようで手を挙げて合図してくれたが、もちろん立ち止まって待つことはない。
転移が起こることを誰もが信じて、一分一秒でも早く庁舎へ着くことを目指しているのだ。
仲間たちの姿が見えたことで、誰かが口に出さなくても俺たちの歩く速度は自然と早くなった。
もう少し。もう少しで合流できる。
初めに気づいたのはサクラだった。
歩みは止めず、何か不安そうに周りを囲んでいる岩山を見上げている。
「どうかしたの?」
「ที่รัก、また――」
彼女の言葉を聞き終える前に異変を感じ取った。
地面が揺れ始めている。
「みんな、気をつけて!」
前の集団からも大きな声が聞こえた。
その場にしゃがみ込みながら、岩山の斜面に目を配る。
さっきの地震ほど大きな揺れは感じず、落石の心配もなさそうだ。
「もう大丈夫だよ」
頭を抱えてうずくまったままの彼女の腕を取って立たせる。
最初に地震が起きた時もかなり怖がっていたけれど、いつもの強気な彼女が嘘のように、これだけは苦手らしい。
しかし、今のは余震なのだろうか。それとも……。
「先を急ごう!」
再び、前から聞こえてきた大きな声を合図に、俺たちも歩き出した。
どうか間に合ってくれ。
再出発してから十五分ほど歩いただろうか。
「おいっ! 庁舎が見えたぞぉ!」
先頭から歓声が波のように伝わってきた。あちこちで安堵と喜びの笑顔が見える。
よかった、間に合ったんだ。
隣を歩いていたサクラを思わず抱き寄せた。
「おばさん、みんな、まってます」
彼女も目を輝かせながら、少女のような満面の笑みを見せて応えてくれる。
足取りも心なしか軽くなった。
と、急に後ろでうめき声が聞こえてきた。
「あっ、痛っ……」
「どうしたんですか!?」
「いや、庁舎を見ようと背伸びしたら、足がつってしまったみたいで……」
別班のリーダーが顔をしかめて腰を折っている。
「下り道は思っている以上に脚へ負担が掛かっているからな」
係長が彼を座らせて右足の靴を脱がせ、土踏まずへのマッサージとふくらはぎのストレッチを始めた。
「もう少しだ。肩を貸すから頑張れるだろ?」
「大丈夫、歩けます。すいません、迷惑かけちゃって」
「気にしないでいいから。お互い様だよ」
俺の後ろに係長が回り、彼をサポートしながら庁舎へと向かった。
歩を進めるごとに庁舎が視界を占めていく。
この建物を目にするだけで、こんなにも安心感を得られるとは……札幌にいたときには想像もつかなかった。
ここに残り、待ってくれていた人たちもエントランスの前に出て来ている。
みんな手を振りながら、何か大きな声をあげていた。表情も分かるくらい近づいた頃には、それが「お帰り!」「待ってたぞー」と聞きとれるようになった。
光岡局長を先頭に大勢の人たちが出迎えてくれている。もちろん、佐伯さんの顔も見えた。
これに似た光景っって――あぁ、駅伝のゴール前みたいだな。そんなことが頭をよぎった、その時。
「うわぁっ!」
「いったん止まれっ!」
この地に来て三度目の地震は、立っていられないほどの大きな揺れを伴って突然やってきた。あちこちで悲鳴と怒号が飛び交っている。
しゃがみこんだサクラの肩に手を掛けながら膝をつく。視界の隅に、庁舎の中へ避難していく局長たちの姿が映った。
不確定要素だったとはいえ、こんなにも地震が起きるなんて。胸奥に湧き上がる黒い
「急いで! 庁舎まで走るぞ!」
揺れが収まるのを待たずに指示の声が上がった。
得体の知れない不安を感じたのは俺だけではないようだ。
彼女の体を起こし、ふらつく足元を注意しながら身体を支えて前へ進む。
庁舎まで数百メートル。
地面が揺れる中では思うように走れず、もどかしい。
大丈夫、まだ大丈夫。
あの音は聞こえてこないし、揺れも収まってきた。もう庁舎までは百メートルもない。
必ず、間に合う。
自らを叱咤激励し、脚を動かす。庁舎へ辿り着いても、そこがゴールではないはずなのに、今はとにかく庁舎の中へ入ることだけを考えていた。
「加瀬君! 係長、早く!」
声の方へ顔を向けると、ホールの中へ入っていた佐伯さんと割れた窓越しに目が合った。
やっとたどり着いた。
立ち止まって佐伯さんに笑顔で右手を挙げ、エントランスへ向かう。
サクラに左手を差し出し、手を繋いで引っ張るように歩き出すとすぐに、低い地鳴りのような音と共に下から突き上げられ、体が一瞬浮いたように感じた。
またか!
バランスを崩して尻もちをつくように転んでしまった彼女の身体を引き起こして立たせる。
「危ないっ!」
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
背中から突き飛ばされ、サクラと一緒に転んでしまった体を起こし、振り返ると、佐藤係長がうつぶせに倒れている。
その背中には一メートル角はあろうかという大きなコンクリートパネルが乗っていた。
何だ、これは――。
揺れる大地の上をゆっくりと係長の元へ近づく。口から多量の血が流れだしていて、目を閉じている。
「……か、係……長……」
もう、俺の声なんて耳には届いていないのだろう。身動き一つすることなく、静かに横たわっていた。
このパネルは外壁のようだ。地震の揺れで剥落してきたのだろう。係長は俺たちを助けるために……。
遠征隊のほとんどは既に庁舎内へ入っていたが、突然、時間が止まってしまったかのようにこちらを振り返って誰も動かない。
サクラは口の前で両手を組んで呆然と立ち尽くしている。
その横を、声も出さずに涙を流しながら、佐伯さんがこちらへ近づいてきた。
「加瀬君……」
「すいません、俺のせいで……」
「誰のせいでもないよ。あなたたち二人が同じ目に合っていたかもしれない。でも……みんな、無事に……戻ってきて、欲しかった」
切れ切れにそう言うとしゃくりあげるように泣き始めた。
また大切な人を目の前で失ってしまった。
こんな
「中へ入ろう。また剥落するかもしれない。ここは危険だ」
浅野さんに肩を叩かれ、我に返った。佐伯さんとサクラを促してホールへ入る。
あれほど待ち望んでいた庁舎なのに、足は重かった。
ホールの一角では、田町副市長と光岡局長を中心に何やら話をしている。
この後で起こりうるだろう、三度目の転移について相談しているのだろうけれど、何かもうどうでもよくなってしまった。
「しっかりして、加瀬君!」
腑抜けた俺を見透かしたかのように、泣きはらした顔で佐伯さんが言った。
「あなたの意見を聞いて、みんなが希望を持って動いてきたのよ。係長の分もあなたがしっかりしなきゃ!」
確かに佐伯さんの言う通りだ。
この後に転移が起こったからと言って、元の世界へ還れる保証はない。今よりは条件がいい場所へ転移すると予測はしているが。
ケムトレイルが起きてから既に三時間以上が経っている。
いつ始まってもおかしくない。
突然、サクラが背負っていたバッグの中から何かを探し始めた。と思ったら、外へ向かって駆け出していく。
「どこに行くの!? 危ないよ!」
彼女の背中へ叫んだけれど振り返らない。慌てて後を追いかけた。
エントランスを出ようとしたとき、忘れもしないあの音が聞こえてきた。
「サクラっ!」
彼女はすぐそこにいた。
拠点で使っていたカーテンを佐藤係長の体へ掛け、お祈りをしている。
「サクラ、すぐに戻って! またどこかに飛ばされるよ!」
駆け戻ったサクラを抱き止める。
「ありがとう」
「気遣ってくれて、ありがとう」
俺の後を追いかけてきた佐伯さんも、彼女へお礼を言った。
「さぁ、すぐに転移が始まるから、もっとホールの奥へ行こう」
そう言った後に係長の方へ振り返り、一礼をした。
そうしている間にも、徐々に高い音となり、圧が高まっていく。
「みんな低い体勢を取って! 近くに掴まるものがあれば身体を支えてください」
田町市長の声が聞こえる。
今までと同様、耳に感じる違和感が高まった後、急激に上昇し始めた。
同時に、床面へ向かって見えない力で押し潰される。
数秒後には急降下するような浮遊感が襲ってくるはず――ところが、何かが崩れるような音と共に床が大きく傾いた。
「な、何だ!?」
「うぉっ!」
「きゃぁっ!」
あちらこちらで叫び声が上がり、滑り台のように傾いた床を何人もが滑り落ちていく。
床が傾いたまま、庁舎は急降下を始めた。
「ที่รัก!」
「あっ、落ちちゃう!」
身体の軽い女性二人が、降下によって浮き上がるようになったのか滑り落ちそうになる。咄嗟に右手を伸ばしてサクラの手首の辺りを掴む。サクラも手を伸ばして、隣の佐伯さんの腕を掴んだ。
近くに掴まる所がなく、二人を支えられずに俺も一緒にゆっくりとずり落ちていく。その先にはガラスが割れてなくなった窓が待ち構えている。
あそこから落ちたら……考えたくもない。
左の掌と頬を床に押し付けて、少しでも摩擦で留めようとした。サクラも佐伯さんも、必死に床へ貼り付くようにしている。
「二人とも頑張って!」
声を掛けている間も、さらに降下は続いていた。それに合わせて、俺たちも少しずつ落ちていく。
前回は降下を始めてから数秒で新たな地へ着いたはずなのに、気のせいか、今までよりも長く感じる。
頼む、早く止まってくれ。
突然、衝突したような反動を受けて庁舎が止まり、俺たちの体が跳ね上がってから床に打ちつけられた。
廻りからもうめき声が聞こえてくる。
何処かへ着いたのか?
それにしても、今回はどうも様子が違う。床が斜めになったままということは、庁舎そのものが傾いているのか。
「大丈夫? 怪我はない?」
窓まで一メートルほどの所で座り込んでいる二人に話し掛けた。
「はい、だいじょうぶです」
「加瀬君、ありがとう」
立ち上がり見回すと、大きな怪我をした人もいないようだ。
「加瀬君の言ったとおり、やっぱり転移が起きたんだね」
「でも、様子がおかしかったと思いませんか? こんな風に止まることなんてなかったのに」
山の斜面に立っているような、何か不思議な感覚だ。
「今度はどんな所なんだろう」
「外に出てみましょう」
サクラも一緒に三人で、新たな地を見に行った。
「また、赤い大地か……」
目の前には見馴れた色が拡がっている。
「でも、あそこに見えるのは何か植物みたい」
佐伯さんが指をさす方には、確かに木のようなものが見える。前回よりも条件が良くなったと言うことか。
「そら、あおです!」
サクラの驚いた声を聞くまで、すっかり忘れていた。そうだ、これが懐かしい空の色だ。
青い空を見上げたときに庁舎が目に入り、その姿を見て納得した。
六階辺りから上の部分が、なくなっていたのだ。
建物にダメージがあると聞いていたけれど、あの度重なる地震を受けて転移の途中で折れてしまったのだろう。それで斜めになったまま落ちてきた、というところか。
下層階に避難しておいて正解だったんだな。
不意に目の前を何かが横切った。
「加瀬君! 見て……」
小さな黒い影が――ハエ?
「加瀬君……こっちへ、来てよぉ……」
佐伯さんの涙声が聞こえる。
これって……。
立ち尽くす佐伯さんの隣へ行く。
その視線の先にあるもの。俺も知っている。
エアーズロックだ。
「私たち、還ってきたんだよね……」
「どうやら、そうみたいですね……」
「何それ? もっと喜べばいいじゃない」
「佐伯さんだって、はしゃいでいるようには見えませんよ」
サクラの方を振り返り、笑顔で大きくうなずくと、また満面の笑みで飛びついてきた。
「でも、今って何年なんだろう?」
「何年だっていいじゃないですか! こうして還ってこれたんだから」
泣き笑いの佐伯さんへ向き直る。
「それより、今度はここからどうやって札幌へ帰るか考えないと」
「うーん、ここへ還ってきたことに比べれば、ちょっとだけ簡単かもね」
きょとんとするサクラの左手を握り、笑みを浮かべながら庁舎へと向かった。
―了―