第7話 かすかな希望
文字数 3,118文字
階段を離れて足を踏み出すとき、昨日の俺と同じように誰もがほんの一呼吸おくように感じた。
「かたい、ですね」
足をトントンと荒地に打ち付けながらサクラさんが言う。
小柄な彼女がつま先で掘るような動作をしていると、子どものように幼く見える。
「そうなんです。土と言うより岩みたいな感じですよね」
あらためて足裏から伝わる感触を確かめた。
この班のリーダーは総務課の企画広報係長である浅野さんが務め、その後ろを二列になって進む。みんな視線を遠くにやりながら言葉もなく歩いていく。
俺とサクラさんは最後尾から、左右を見渡しながら続いていた。十五分が経ち、おおよそ一キロ進んだところで、浅野さんから合図があり最初の目安となるペグを打つ。
思っていた通り、簡単に打ち込むことが出来た。
「周りに何もないから、ここからでも目立つなぁ」
ぽつんと立っている庁舎を見ながら、つぶやいた。
「まるで、何か悪いことをして一人だけ立たされているみたいだ……」
俺の言ったことが理解できなかったのか、サクラさんは小首をかしげている。
「気にしないで下さい。行きましょう」
さらに十五分、そして十五分と平坦な岩のような大地を進んでいくが、途中には木の影どころか雑草すら見当たらない。
昨夜、佐伯さんから聞いたエアーズロックのように、ハエが飛んでいることももちろんない。
振り返ると三キロほど先に小さく市庁舎が見える。
しかし、前を見れば――
「なにも、ないでしょ」
少し変わった言い回しはいつもと同じだけれど、サクラさんの顔からもさすがに微笑みは消えていた。
視界には植物も、建造物も、日陰さえも、何もない。
鳥の声も、風の音も聞こえない。
茜色の雲に覆われた空の下、ただ赤い荒地が水平線を見せるだけだった。
「さて、それじゃ出発しますか!」
ますます口数が少なくなるメンバーに向かって、明るく声を掛けた。
俺が出来るのは、希望を捨てないことだから。
さらに四十五分ほど進んだところで、昼食休憩をとることになった。
時刻は十二時半になっている。
相変わらず、何も見つかっていない。
「もう六キロくらい歩いてきたけど、疲れていませんか?」
非常用ビスケットをペットボトルの水で流し込みながら、サクラさんに声を掛けた。
「サクラは、だいじょうぶ。元気ね」
口をきっと結び顎を上げ、鼻息荒く左手で力こぶを作って見せつけてくる。
そんな彼女を見ているだけで、思わず笑顔になってしまう。
「それ、おじさんしかやらないポーズですよ」
「サクラ、おじさん、ちがう。二十、七さい。あなた、いくつ?」
えっ、マジか。
小柄なだけじゃなく童顔だし、てっきり年下か同じくらいかと思ってた。
「私は二十三歳です」
「にじゅう、さん……。おぅ、サクラが、おねぇさん。そうでしょ?」
今度は腰に手を当て胸を反らせて、いばってる。
「そうですね。それじゃ、サクラ姉さんて呼ぼうかな」
「だーめー! おおきな、おとうと、いらなーい!」
眉間にしわを寄せ、顔の前で手をブンブン振って思いっきり拒絶している。
さっきから、まるでアニメみたいな仕草なんだよなぁ。
廻りのみんなも、俺たちのやり取りを見ながら笑顔を浮かべていた。
「サクラ、でOK」
「それじゃ、私のことは大地って呼んでください」
「あー……、にほんの、なまえ、わからない。あなたは――ที่รัก《ティラ》ね」
名前は覚えにくい、ということみたいだけれど。
「ティラ? どういう意味ですか?」
「ふふっ、ひみつね」
こんな時にも微笑みを使ってくるとは。サクラ、侮れないな。
休憩時間が終わって再び歩き出すときには、班の雰囲気もまた明るさを取り戻していた。サクラがいてくれたおかげだ。
何か見えないか、何でもいい、そう思いながら再スタートして四十分が過ぎた頃。
庁舎を出て既に八キロを越えている。
四方を見渡しても赤い荒れ地が広がるだけで、他には何も――
「おい、あれ……何か変じゃないか?」
突然、浅野さんが前方を指さしながら言った。
その指をさす方を見ても、何も見えない。
ただ赤い地平線が……いや、何かが違う。
茜色の雲に溶け込むような地平線の手前に、わずかだが黒っぽい線が見える。
地平線と並行に引かれたかのような黒い線。
「サクラ、わからない」
少し目を細めて、遠くを睨むように見ながら彼女は言った。
「あそこに黒っぽい線のようなところがあるの、わかりますか?」
「はい、わかります。あれ、なんですか?」
俺にも分からない。
ただ、今までの何もなかった平坦な荒れ地に、何か異なるものがあるのは確かだ。
「行ってみよう」
浅野さんの合図を待つのももどかしく、黒い線へと向かって歩き出す。
言葉はないものの、明らかにみんなの足取りが軽い。
はやる気持ちを抑えながら、目印となるペグを打ち込みつつ進んでいく。
九キロを過ぎた辺りで、おぼろげながら黒い線の正体が見えてきた。
どうやら谷のようだ。
俺たちの進行方向に対して直角に、ほぼ一直線で伸びている。その左右を見てもどこまで続いているのか、確認はできない。
対岸までも相当な距離がありそうに見える。
まるでここが行き止まりと言わんばかりに、通せんぼされているような……。
「かわ、ありますか?」
えっ。
サクラの言葉で我に返った。
そうか、あの谷は川が作ったものかもしれない。グランドキャニオンもコロラド川の浸食作用で出来たという。断層で出来た谷ならば、対岸との高低差が出来るはずだが、ここにはそれもない。他に考えられるのは、地殻変動による亀裂か。それにしては幅が広すぎる。
川によって作られた谷ならば、水もあるということだ。
「川があるといいですね」
さらに十五分ほど歩き、谷の淵までたどり着いた。
対岸までは三十メートルといったところか。
谷の底には――
「あなた、なにしてますか? こっち、きてください」
淵から底のほうを覗き込んでいたサクラが振り返って言った。
「いや、あの……ここから見えるので……大丈夫です」
谷底は見えない。
視界には切り立った崖が映るだけで、底はどれだけ深いのか。
高い所が極端に苦手 な俺には、二、三メートル離れたところから眺めるのが精一杯だ。
「なにも、みえない。かわ、わからない」
こちらへ戻ってきたサクラが、谷底を見に来ない俺を不思議そうに見ながら言った。
「そうですか。川の流れる音も聞こえませんね」
この雲に覆われた空では明るさこそ保たれているものの、陽射しが谷へ差し込むことはない。底が見えないということは、谷の幅を考慮すると少なくとも五十メートル程の深さがあるのだろう。
いずれにしろ、今はこれ以上の調査が出来ない。
「雨季にだけ川が流れるのかもしれないな」
浅野さんの言葉を自らに信じ込ませ、俺たちは庁舎へ戻り始めた。
*
探索に出た四班からの報告では、約十キロ離れたところに谷を発見した班が一つのみで、いずれも動植物の存在すら確認出来なかった。
最も重要な水の確保を目指し、わずかな可能性を残す谷の存在は彼らにとっての微かな希望である。
明日は地下の車庫にあった自転車を利用して、二班で谷についての調査を継続することとなった。
時刻は十九時になろうとしている。
彼らに残されているのは――九十一時間。
「かたい、ですね」
足をトントンと荒地に打ち付けながらサクラさんが言う。
小柄な彼女がつま先で掘るような動作をしていると、子どものように幼く見える。
「そうなんです。土と言うより岩みたいな感じですよね」
あらためて足裏から伝わる感触を確かめた。
この班のリーダーは総務課の企画広報係長である浅野さんが務め、その後ろを二列になって進む。みんな視線を遠くにやりながら言葉もなく歩いていく。
俺とサクラさんは最後尾から、左右を見渡しながら続いていた。十五分が経ち、おおよそ一キロ進んだところで、浅野さんから合図があり最初の目安となるペグを打つ。
思っていた通り、簡単に打ち込むことが出来た。
「周りに何もないから、ここからでも目立つなぁ」
ぽつんと立っている庁舎を見ながら、つぶやいた。
「まるで、何か悪いことをして一人だけ立たされているみたいだ……」
俺の言ったことが理解できなかったのか、サクラさんは小首をかしげている。
「気にしないで下さい。行きましょう」
さらに十五分、そして十五分と平坦な岩のような大地を進んでいくが、途中には木の影どころか雑草すら見当たらない。
昨夜、佐伯さんから聞いたエアーズロックのように、ハエが飛んでいることももちろんない。
振り返ると三キロほど先に小さく市庁舎が見える。
しかし、前を見れば――
「なにも、ないでしょ」
少し変わった言い回しはいつもと同じだけれど、サクラさんの顔からもさすがに微笑みは消えていた。
視界には植物も、建造物も、日陰さえも、何もない。
鳥の声も、風の音も聞こえない。
茜色の雲に覆われた空の下、ただ赤い荒地が水平線を見せるだけだった。
「さて、それじゃ出発しますか!」
ますます口数が少なくなるメンバーに向かって、明るく声を掛けた。
俺が出来るのは、希望を捨てないことだから。
さらに四十五分ほど進んだところで、昼食休憩をとることになった。
時刻は十二時半になっている。
相変わらず、何も見つかっていない。
「もう六キロくらい歩いてきたけど、疲れていませんか?」
非常用ビスケットをペットボトルの水で流し込みながら、サクラさんに声を掛けた。
「サクラは、だいじょうぶ。元気ね」
口をきっと結び顎を上げ、鼻息荒く左手で力こぶを作って見せつけてくる。
そんな彼女を見ているだけで、思わず笑顔になってしまう。
「それ、おじさんしかやらないポーズですよ」
「サクラ、おじさん、ちがう。二十、七さい。あなた、いくつ?」
えっ、マジか。
小柄なだけじゃなく童顔だし、てっきり年下か同じくらいかと思ってた。
「私は二十三歳です」
「にじゅう、さん……。おぅ、サクラが、おねぇさん。そうでしょ?」
今度は腰に手を当て胸を反らせて、いばってる。
「そうですね。それじゃ、サクラ姉さんて呼ぼうかな」
「だーめー! おおきな、おとうと、いらなーい!」
眉間にしわを寄せ、顔の前で手をブンブン振って思いっきり拒絶している。
さっきから、まるでアニメみたいな仕草なんだよなぁ。
廻りのみんなも、俺たちのやり取りを見ながら笑顔を浮かべていた。
「サクラ、でOK」
「それじゃ、私のことは大地って呼んでください」
「あー……、にほんの、なまえ、わからない。あなたは――ที่รัก《ティラ》ね」
名前は覚えにくい、ということみたいだけれど。
「ティラ? どういう意味ですか?」
「ふふっ、ひみつね」
こんな時にも微笑みを使ってくるとは。サクラ、侮れないな。
休憩時間が終わって再び歩き出すときには、班の雰囲気もまた明るさを取り戻していた。サクラがいてくれたおかげだ。
何か見えないか、何でもいい、そう思いながら再スタートして四十分が過ぎた頃。
庁舎を出て既に八キロを越えている。
四方を見渡しても赤い荒れ地が広がるだけで、他には何も――
「おい、あれ……何か変じゃないか?」
突然、浅野さんが前方を指さしながら言った。
その指をさす方を見ても、何も見えない。
ただ赤い地平線が……いや、何かが違う。
茜色の雲に溶け込むような地平線の手前に、わずかだが黒っぽい線が見える。
地平線と並行に引かれたかのような黒い線。
「サクラ、わからない」
少し目を細めて、遠くを睨むように見ながら彼女は言った。
「あそこに黒っぽい線のようなところがあるの、わかりますか?」
「はい、わかります。あれ、なんですか?」
俺にも分からない。
ただ、今までの何もなかった平坦な荒れ地に、何か異なるものがあるのは確かだ。
「行ってみよう」
浅野さんの合図を待つのももどかしく、黒い線へと向かって歩き出す。
言葉はないものの、明らかにみんなの足取りが軽い。
はやる気持ちを抑えながら、目印となるペグを打ち込みつつ進んでいく。
九キロを過ぎた辺りで、おぼろげながら黒い線の正体が見えてきた。
どうやら谷のようだ。
俺たちの進行方向に対して直角に、ほぼ一直線で伸びている。その左右を見てもどこまで続いているのか、確認はできない。
対岸までも相当な距離がありそうに見える。
まるでここが行き止まりと言わんばかりに、通せんぼされているような……。
「かわ、ありますか?」
えっ。
サクラの言葉で我に返った。
そうか、あの谷は川が作ったものかもしれない。グランドキャニオンもコロラド川の浸食作用で出来たという。断層で出来た谷ならば、対岸との高低差が出来るはずだが、ここにはそれもない。他に考えられるのは、地殻変動による亀裂か。それにしては幅が広すぎる。
川によって作られた谷ならば、水もあるということだ。
「川があるといいですね」
さらに十五分ほど歩き、谷の淵までたどり着いた。
対岸までは三十メートルといったところか。
谷の底には――
「あなた、なにしてますか? こっち、きてください」
淵から底のほうを覗き込んでいたサクラが振り返って言った。
「いや、あの……ここから見えるので……大丈夫です」
谷底は見えない。
視界には切り立った崖が映るだけで、底はどれだけ深いのか。
「なにも、みえない。かわ、わからない」
こちらへ戻ってきたサクラが、谷底を見に来ない俺を不思議そうに見ながら言った。
「そうですか。川の流れる音も聞こえませんね」
この雲に覆われた空では明るさこそ保たれているものの、陽射しが谷へ差し込むことはない。底が見えないということは、谷の幅を考慮すると少なくとも五十メートル程の深さがあるのだろう。
いずれにしろ、今はこれ以上の調査が出来ない。
「雨季にだけ川が流れるのかもしれないな」
浅野さんの言葉を自らに信じ込ませ、俺たちは庁舎へ戻り始めた。
*
探索に出た四班からの報告では、約十キロ離れたところに谷を発見した班が一つのみで、いずれも動植物の存在すら確認出来なかった。
最も重要な水の確保を目指し、わずかな可能性を残す谷の存在は彼らにとっての微かな希望である。
明日は地下の車庫にあった自転車を利用して、二班で谷についての調査を継続することとなった。
時刻は十九時になろうとしている。
彼らに残されているのは――九十一時間。